貴船神社
(きぶねじんじゃ・きふねじんじゃ)京都きっての避暑地、貴船にある貴船神社には、水の神、高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。平安時代の昔から祈雨や止雨の霊験が崇められ、縁結びの神としても古くから知られていました。貴船は自然の気が満ちるパワースポットとしても人気があります。
本宮の大鳥居
社名・社号 | 貴船神社 |
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住所 | 京都市左京区鞍馬貴船町180 |
電話 | 075-741-2016 |
アクセス | 叡山電車「貴船口」下車、徒歩20分、または京都バス33系統で「貴船」下車 地下鉄「国際会館前」下車、京都バス52系統「貴船口」下車 徒歩20分、または「貴船口駅前」から京都バス33系統で「貴船」下車 |
拝観時間 |
5/1-11/30/6:00~20:00 12/1-4/30/6:00~18:00 (正月三が日20:00閉門) 授与所受付9:00~17:00 夜間特別ライトアップ 7/1-8/15 |
拝観料 | 無料 |
公式サイト | http://kifunejinja.jp/ |
貴船の神と吉野の仏国童子
叡山電鉄貴船口からは貴船川沿いに上流へ徒歩20分ほどで貴船神社の本宮の参道にたどり着きます。駅から路線バスも出ているので、交通量の多い道を歩くよりはこちらがお勧めかもしれません。また、鞍馬寺の奥の院から西門を出ると本宮の参道まではすぐなので、先に鞍馬寺に参拝してから貴船神社へと回る人も多いようです。ただしこのルートは山道を歩くことになります。
本宮の本殿へは朱塗りの鳥居をくぐって80段ほどの石段を登ります。もとは奥宮の場所にあった本宮がしばしば洪水の被害に遭うというので天喜3年(1055)に現在の地に遷されたといわれています。現在の真新しい本殿は平成17年に建て替えられたもの。貴船神社は縁結びの神様として人気が高く、参拝するカップルも多いようです。またパワースポットとしても知られ、運気上昇、諸願成就などさまざまなご利益があります。本宮から奥宮までは貴船川沿いを徒歩約15分。中間に結社(ゆいのやしろ)が鎮座しますが、本宮→奥宮→中宮と参拝するのが慣わしとされています。
貴船神社の創建について、天武天皇の白鳳6年(677)に社殿が建てられたとされているので、それ以前から貴船の神は祀られていたのでしょう。本宮の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)です。高龗神について、『日本書紀』第5段一書7によれば、イザナミが火の神であるカグツチを生んだとき、からだを焼かれて死んでしまい、それを恨んだイザナギが、十束剣(とつかのつるぎ)でカグツチを三段に斬ったうちの一段から生まれた神とされています。高龗神の「龗(おかみ)」は龍蛇を意味するそうで、龍神すなわち水を司る神とされています。
また、貴船は、木生根、木生嶺などと書かれ、木の神、山の神として祀られてきたともいわれています。なお『延喜式』神名帳には「貴布禰神社」と表記されています。貴布禰は「きふね」と読まれ、明治に「貴船」と改められてからも、正式には「きふねじんじゃ」と呼ぶようです。
貴船神社の由緒については2つの伝承があり、ひとつは社記による「貴船大神は、太古の丑の年の丑の月の丑の日に、国家安穏、万民守護のため貴船山中腹の鏡岩に降臨した」という伝承。もうひとつは、1600年ほど前の反正天皇(はんぜいてんのう)の御世に、神武天皇の母である玉依姫命が難波から黄色い船に乗って鴨川を遡り、貴船川の上流に至ったとき、霊境の吹井を見てそこに祠を建てたという伝承です。祠が建てられた場所は今の奥宮です。
貴船神社は奥宮にあった本宮が現在の場所に遷った天喜3年(1055)ごろに、上賀茂神社の摂社となった経緯があります。そのため一般的には、賀茂社の玉依姫が貴船神社の縁起に持ち込まれたものとみられています。たしかに同じ女神なのですが、賀茂社から持ち込まれたわけではないようです。ただ、貴船の神は、賀茂社では元つ神とも呼ばれていたようで、一説に、鴨伝承の丹塗矢(にぬりや)は鴨川上流の貴船川から流れてくるとして、鴨県主と同じ神を祀る同祖の氏族によって祀られたとも考えられています。けれども、高龗神は火を封じる水神なので、火雷神(ほのいかづちのかみ)である丹塗矢は高龗神にはなれないのです。
一方、水神の龍神である高龗神の神格は、綿津見豊玉彦(賀茂建角身命)や玉依姫(神武の母)の神格と同じです。また玉依姫の父・建角身命は「森の大明神」とも呼ばれ、森林・樹木の神でもあります。スサノオの子のイタケルにも似ていますが、玉依姫は樹下神事によって降臨するので、木の神といわれる木生根にも通じるところがあるのです。そして当初、玉依姫を神武天皇の母として下鴨の河合神社で祀っていたのが玉依姫の兄、玉依彦の子孫らです。河合神社の玉垣内には貴布禰神社も合わせ祀られています。
どういうことかというと、建角身命の直系の子孫である玉依彦の子孫らは、賀茂県主にとっては外戚で、河合神社、貴布禰神社、三身社、出雲井於神社…など、玉依姫の実家の神社は、のちに賀茂社の摂社に組み入れられていった経緯があるのです。けれども、彼らはもとは独立して自分たちの祖先を祀っていました。そして、おそらく貴船神社も似たような経緯を辿ったと思われるのです。
また、貴船神社を祀った社家のうち筆頭に上がるのが舌家(ぜっけ)でした。代々社家を相承した舌家には『黄船社秘書』が伝わり、その中の「貴布祢雙紙(きふねぞうし)」には独自の由緒が記されています(周辺メモ:牛一社参照)。それによると、舌家は貴船大神の降臨に「お伴した」牛鬼の子孫といわれています。牛鬼は仏国童子とも呼ばれ、天上の神々の秘密を暴露したために貴船大神に舌を八つ裂きにされ、吉野山に逃げたあと暫くして貴船に戻り、許されるまで鏡岩に隠れていたと書かれています。末社の牛一社はこの牛鬼を祀ったものとされています。また、仏国童子の子の僧国童子は丹生大明神に仕え、貴船に戻って貴船大明神に仕えたとされています。そして、この伝承のなかで気になるのが吉野とのつながりです。
吉野には丹生川上神社(上社、中社、下社)があり、高龗神や闇龗神が祀られています。貴船神社が史書に出るのは平安時代初期のころからですが、旱魃や洪水に際して、降雨や止雨(しう)が盛んに祈られました(『日本紀略』『続日本後紀』『日本三大実録』など)。またこの水神の怒りを鎮めるために、祈雨のときには黒馬が、止雨のときには白馬が献上されたと伝えられています。これは丹生川上神社と同じ神事で、丹生社と貴船社にはセットで奉幣も行われています。その丹生川上神社は大和神社の別宮とされているのですが、大和神社で日本大国魂大神(やまとのおおくにたまのおおかみ)を祀ったのは綿津身豊玉彦(建角身命)の子孫の市磯長尾市(いちしのながおち)といわれているのです。
ところで、貴船神社が上賀茂神社の摂社となったあと、両社の関係は密になったようですが、秀吉による太閤検地で貴布祢村の非課税が認められると、村の人々は自治を目指し、貴船神社は上賀茂神社からの独立訴訟を起こしています。ところが幕府に認められず、上賀茂神社から独立したのは明治に入ってからという残念な歴史があるのです。その寛政以来300年にわたった係争中に、上賀茂神社の訴訟担当であった岡本清茂が、貴布祢神社についての調査資料をまとめた『木舩谷者所持記』なる記録があります。
この『木舩谷者所持記』の翻刻版(三浦俊介氏による)をたまたまネットで見つけたのですが、その中の、貴布祢谷神人年寄役八左衛門の家伝とされる「貴布禰末社之記」に、舌氏や貴船大神についての由緒などが書かれています。それによれば、舌氏の遠祖は大和国吉野郡で発祥し、丹生大明神に随従したようで、丹生大明神と貴布祢大明神は同体とされています。また、舌氏は世間から「陶若(ゆりわか)大臣」の末裔とみられていたと書かれています。訓は異なりますが、建角身命は陶津耳(すえつみみ)とも呼ばれたことからすると「陶若大臣」は建角身命の子である玉依彦や、その子孫のことかもしれません。「陶若大臣」は薨去後、奥宮の右畔の奥深社に祀られたとされていますが、今は不明です。
賀茂社のページで述べていますが、建角身命の子孫の一流にはワニ氏があり、大和神社はワニ氏が拠点とした天理にあります。貴船の社地にもワニ氏同族とされる野中氏(天足彦国押人命之後)や櫟臣(いちいのおみ)に関係すると思われる野中や市原(嵯峨の櫟原と同じ)の地名があります。それらの氏族がどのように分岐し、遷移したか不明ですが、玉依姫は難波から鴨川を遡ったとされることから、貴船の地に入った一族は、賀茂県主より先に上賀茂に到達していた建角身の直系子孫らと推測するのが自然なのかもしれません。建角身の子孫らは淀川水系の乙訓で、河合神社の元社といわれる神川神社を奉祭していたとも伝えられています。
ただ、舌氏については「陶若大臣」の末裔を自称したわけではなく、出自を証明できるものは失われたと書かれています。なので、稚日女命(わかひるめ)と同体といわれる丹生都姫(にゅうつひめ)を祀った丹生氏、天野祝(あまのはふり)の流れも無視できません。ワニ氏と丹生氏は若狭の遠敷郡でも共に居住しています。とくに大丹生氏本宗から分かれたとされる丹生祝は、吉野の丹生川上神社の社家を務めているのです。丹生川上神社が大和神社から分祀されたことを考えると、「貴布祢雙紙」で牛鬼が貴布祢大明神に対して従属的に書かれているのは、ワニ氏と丹生祝の主従関係を表しているのかもしれません。
丹生氏は紀氏の流れをひく氏族ですが、紀氏は鴨県主の男系の祖先ともつながりがあります。紀氏は、素戔嗚の子らとの強固な姻戚関係が伝えられ、篤いスサノオ信仰があります。舌氏が牛鬼の子孫といわれるのも牛頭天王との関係を示唆しているようにも思われるのです。
一方、綿津身豊玉彦の子孫が祀る日本大国魂大神(やまとのおおくにたまのおおかみ)は大己貴神の荒魂といわれ、海神にもスサノオ信仰があります。貴船神社では6月に例祭の貴船祭があり、素戔嗚命のヤマタノオロチ退治が奉納されます。また、鎌倉時代末期(室町とも)以降に、陰暦の9月1日から9日間、子供たちの疫病退散を祈願して、子供に小さな神輿を振らせる「狭小神輿(ささこし)」とよばれる御霊会も行われていました。こちらは貴船の神の祟りを鎮める祭礼といわれています。
気の生ずるパワースポット・奥宮、縁結びの中宮
本宮をお詣りしたあとは、途中にある中宮はひとまずスルーして奥宮へ。奥宮は貴船神社の強力なパワースポットとして知られています。実際、本宮からわずか700mしか離れていないにもかかわらず、境内に漂う空気がどこか違うのです。気生根とも、気生嶺とも書かれ、まさしく力強い気を生じさせるような雰囲気に包まれています。
本殿の横には「船形石(ふながたいわ)」があり、玉依姫が乗った「黄船」を人目に触れぬよう石で覆ったと伝えられています。船に関わる由緒から船舶関係者の参詣も多いそうです。また本殿の地下に龍神が住む巨大な龍穴があるといわれ、文久年間(1861-63)に本殿が修理された際、大工が誤ってノミを落としたところ、一天にわかにかき曇り、突風が起こってノミを空中に吹き上げたといわれています。奥宮の祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)といわれ、深く暗い谷の龍神の意味がありますが、社伝によれば、高龗神も闇龗神も同じ水神とされています。荒魂と和魂の関係かもしれません。
もとの道を戻ると本宮との中間に中宮があり、結社(ゆいのやしろ)が建っています。祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉の磐長姫命(いわながひめ)です。
日本神話によれば、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、木花開耶姫(このはなさくやひめ)に出会ってプロポーズしますが、木花開耶姫は父が決めることと言って返事をしませんでした。父の大山祇神(おおやまつみ)は、美人の木花開耶姫と、ブサイクな姉の磐長姫(いわながひめ)の2人を差し出して、ニニギに選ばせます。ニニギは木花開耶姫を選び、磐長姫を返したところ、大山祇神は、磐長姫を選んだなら天孫の命は永遠だが、木花開耶姫を選んだなら天孫の命は木の花のように儚いものになるでしょうと語りました。『書紀』の一書では、磐長姫はこれを恥じて呪いの言葉を吐いたと書かれていますが、貴船神社の社伝では、磐長姫は自分を恥じて「これからは縁結びの神として人の良縁を結びましょう」といってこの地に鎮まったとされています。優しい。
その磐長姫の霊験はあらたかで、多くの人々が長い草の葉を玉垣に結んで良縁を祈願したそうです。貴船神社は平安時代の昔から、とりわけ縁結びの御神徳が尊ばれていました。平安時代の女流歌人、和泉式部が夫の心変わりを悲しんで、貴船で歌を詠んだところ、貴船の神が思いつめなくてよいと返歌で応え、復縁を果たしたという説話があります(『十訓抄(第十)』など)。以下はそのときの和歌です。
もの思えば 沢の蛍も わが身より
あくがれ出づる たまかとぞ見る
(和泉式部)
奥山に たぎりて落つる 滝つ瀬の
たま散るばかり ものな思ひそ
(御返し)
恋多き女性として名を馳せた和泉式部が「沢を舞う蛍のようにわが身から魂が抜け出ていく」と詠むほどに哀しみに身をやつしていたようです。これに対し「滝のしぶきのように魂が散るほど思いつめるな」と貴船の神は返し、夫、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)との復縁を計らったといいます。
さらにこの説話は鎌倉後期の僧・無住(むじゅう)の『沙石集(巻十末)』にもう少し詳しく書かれていて、それによると貴船の神は安易に和泉式部の願いを叶えたわけではなく、ひとひねり試練を与えていました(以下大意)。
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和泉式部が夫の藤原保昌に捨てられ、貴船神社の巫女に相談したところ「敬愛の祭」なる儀式をすることになった。保昌もそれを聞きつけ貴船にやってきて木陰から見ていると、巫女が御幣を立て、祈りを捧げたあと、鼓を打って着物の前をかき上げ、股を叩いて三度回り「これと同じことをやりなさい」と和泉式部に言った。和泉式部は恥ずかしく思いためらっていると、巫女は「本気ならやらないでどうするのよ」という。保昌は面白いものが見られると思っていると、和泉式部は考え込んだあと歌を詠む。
ちはやぶる 神の見る目も 恥づかしや
身を思ふとて 身をや捨つべき
「神さまがご覧になっていると思うと恥ずかしくてなりません。わが身の悩みのためとはいえ、わが身を捨ててそんな恥ずかしいまねなどできません」。そのとき保昌はそんな和泉式部を愛しく思い、「私はここにいるよ」と現れて、和泉式部を連れ帰ったという。
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もし和泉式部が巫女に言われるままに振る舞っていたら、保昌の愛は復活しなかったかもしれません。和泉式部は貴船の神に試されたのかも。なお僧の無住はこの説話を挿入した条で、諸宗において、言説にこだわることや格式にこだわることを批判し、和泉式部の行動を例にとって「格を越えてかへりて格に當りて、祈念も叶ひける」と記しています。
玉依姫(瀬織津姫)が鬼になる?!
とにかくハッピーエンドならいいのですが、じつは貴船の神が女の復讐に関わるというちょっと怖い伝承もあります。それは平家物語の異本『源平盛衰記』などの「剣巻」に収められた宇治の橋姫伝説から派生したもので、貴船大明神の計らいにより、嫉妬深い女に宇治の橋姫がとり憑いて鬼になるという話です。ちなみに宇治の橋姫神社の祭神は瀬織津姫で、玉依姫が模されているとしたらかなり闇が深い話です。「剣巻」では時代設定が嵯峨天皇の御世のことになっていますが、この話がモチーフとなって、謡曲「鉄輪(かなわ)」が生まれています(以下大意)。
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京の都に住むひとりの女が、自分を捨てて後妻を娶った元夫を恨んで復讐に燃え、貴船神社で丑の刻詣りをしていると、貴船の神のお告げがあった。「頭に鉄輪を乗せ、その脚に火を灯し、顔に丹を塗り、赤い衣を身にまとい、怒る心をあらわにせよ」。女はお告げに従おうと思った途端、たちまち鬼の姿になった。
女の元夫は近ごろ夢見が悪いので、陰陽師の安倍晴明に相談すると、先妻の呪いで今夜にも命が危ないという。男は先妻の調伏を頼み、晴明は男と後妻の形代(人形)を身代わりにして祈祷を始めた。そこへ火を灯した鉄輪を頭に戴いた鬼女がやってきて、男(の形代)に襲い掛かった。しかし晴明は呪力で三十番神を呼び出し、鬼女を追い払った。鬼女はとうとう力を失い退散していったという。
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この話のベースとなった「剣巻」は神代の話が踏襲され、源平の逸話が剣を通してうまく語られています。なお、貴船神社は丑の刻詣り発祥の地といわれていますが、それは貴船の神が丑の年の丑の月の丑の日に降臨した由来によります。なので、呪いとは関係なく、古くから人々は心願成就を祈って丑の刻詣りをしていたといわれています。