二条城
(にじょうじょう)二条城は唯一御殿を遺す徳川将軍家のお城です。慶長8年(1603)、徳川家康によって造営された二条城は、家光の時代にもっとも充実し、幕末には慶喜(よしのぶ)によって大政奉還の場となりました。戦場での軍事基地とはなりませんでしたが、堅牢な城郭は徳川将軍家の威信を物語っています。
二の丸御殿の車寄(背後の建物は遠侍)
名称 | 二条城 |
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住所 | 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 |
電話 | 075-841-0096 |
アクセス | 地下鉄 東西線「二条城前」下車すぐ 市バス 9,12,50系統「二条城前」下車 |
開城時間 | 8:45-16:00(閉城17:00) 休城日:12月29~31日 二の丸御殿休殿日: 1月・7月・8月・12月の毎週火曜日、1月1日~3日、 12月26日~28日(当該日が休日の場合はその翌日が休殿日) |
入城料 | 入城のみ:一般800円 入城・二の丸御殿セット: 一般1300円 中高生400円 小学生300円 (高校生以下は二の丸御殿観覧が無料のため、御殿観覧の有無に関わらずこの料金) |
公式サイト | https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/ |
大阪の陣の本営、徳川将軍上洛時の居館としての城
二条城は京都の定番の観光スポットになっています。城のシンボルである天守は失われていますが、豪華絢爛な御殿を伝える徳川家のお城です。そのため将軍の邸宅のイメージが強いのですが、大阪の陣では幕府の本営となったため、堅牢な城郭を備えています。また、朝廷との関係に対応してイカツイ城からやさしい姿に変容した時期もあります。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長7年(1602)に二条城の造営に着手しました。築城に当たっては京都所司代の板倉勝重が奉行となり、中井正清が工事を指揮しています。中井家は徳川幕府の大工頭で、初代の正清はそのとき畿内の約15,000人の大工と約11,000人の杣木挽(そまこびき)を束ねたといわれています。杣木挽とは伐採した木材を現地で柱や板などに加工する職人をいいます。また、このとき神泉苑が大きく取り壊され、池の一部が城の堀に取り込まれたといわれています。
二の丸御殿が完成した慶長8年(1603)3月、征夷大将軍の宣下を受けた家康は城に入り、勅使を迎えて拝賀の礼を行っています。また4月4日からの3日間、家康は二条城に公家衆や大名たちを招いて祝宴を催し、徳川政権の始まりを都の人々に知らしめました。
慶長16年(1611)、家康は後水尾天皇の即位にさいして上洛し、秀吉の子である豊臣秀頼を呼びつけて二条城で会見を行っています。家康にとって秀頼は孫娘である千姫(長男秀忠の娘)の婿です。盃を交わして終始なごやかな会見となった、かどうかはわかりませんが、豊臣家が家康に滅ぼされたのはこの3年後でした。一説に、家康はこの会見で成長した秀頼をみて脅威を感じたからだともいわれています。
大坂冬の陣・夏の陣では二条城が幕府側の軍事拠点となり、戦後処理も行われました。直後の慶長20年(元和元年・1615)7月には禁中並公家諸法度の公布が二条城で行われ、その後は将軍上洛時の邸宅として、また、御所の守護と監視の役割を担ってきました。
元和5年(1619)、徳川2代将軍秀忠は、娘の和子(まさこ・かずこ)を後水尾天皇の中宮として入内させるため、二条城の改修工事を行い、新たに御殿を建設。翌元和6年(1620)に和子は二条城から御所に入りました。
徳川3代将軍家光の代になると、幕府は公武和合の政策を天下に示すべく、後水尾天皇の行幸を計画して二条城の大改造を行っています。敷地は西へ大きく拡張され、内堀で囲まれた本丸が新たに設けられました。東西に約500m、南北に約400mという現在の敷地の規模は、この寛永期の改造によって拡張されたものです。当初二の丸にあった5層の天守閣は淀城へ移され、城の西南隅に伏見城から天守閣が移築されました。作事奉行に小堀遠州が任じられ、二の丸御殿と二の丸庭園も改造されています。
現在の二の丸御殿と二の丸庭園にはこのときの名残があります。二の丸御殿は、車寄(くるまよせ)、遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、黒書院、白書院の6棟が少しずつズレて後ずさりする雁行形で配置され、どの建物からも庭園が鑑賞できるようになっています。建物内部は公家や武士の身分によって立ち入りを許される部屋が決められていました。また廊下は歩くとキュッキュッと音が鳴り侵入者を知らせる「うぐいす張りの廊下」になっています。
二の丸御殿最大の建造物である遠侍は、諸大名の控室で、一の間、二の間、三の間、柳の間、若松の間、勅使の間などがあり、慶長16年(1611)の家康と秀頼との会見は一の間で行われました。つづく式台には、老中と大名が対面する間や老中の控えの間があります。大広間は御殿でもっとも格式の高い部屋とされ、諸大名が将軍に謁見を許されるところでした。また、黒書院は将軍が家臣と対面する間として、白書院は将軍の居間・寝所として建てられました。
御殿の各部屋の障壁画も寛永の改修期に一新されています。手掛けたのは狩野派一門で、白書院を除くすべての部屋は金碧障壁画で飾られています。式台、大広間、蘇鉄(そてつ)の間は探幽が、黒書院は弟の尚信(なおのぶ)が担当したといわれています。一方、将軍のプライベートルームである白書院の障壁画は、淡彩の水墨画で山水図や花鳥図が描かれ、くつろぎの空間が創出されています。担当したのは狩野興以(かのうこうい)といわれています。
寛永3年(1626)9月、当時大御所であった秀忠と将軍家光が上洛し、後水尾天皇の行幸を出迎えました。天皇の二条城滞在は5日間にも及び、絢爛華麗な城内をみて「今が弥勒の世なるべし」と讃嘆されました。天守閣にも3度登って眺望を楽しまれたそうです。ちなみに後水尾天皇が入城された東大手門は、創建当初は櫓門(やぐらもん)でしたが、行幸に合わせて単層の門に改造されました。天皇の頭上に人が乗る空間があってはならないという配慮からでした。
そのほか行幸に合わせた特別仕様として、現在の二の丸庭園の南側に、行幸御殿や中宮御殿が造られました。また庭を眺めるための御亭(おちん)が池の中に建てられ、池の奥には女房たちのために長局(ながつぼね)なども建てられました。さらに、現在は二の丸から本丸へは内堀に架かる東橋を渡りますが、当時は東橋を渡り廊下にリフォームし、天皇は土足にならずにそのまま歩いて二の丸御殿と本丸御殿を行き来できたといわれています。後水尾天皇の行幸のようすは洛中洛外図屏風に描かれていて、図では橋の渡り廊下を数人が座ってくつろいでいるかのように描かれています。
後水尾天皇の行幸の5日間は二条城の最盛期であったでしょう。何かと軋轢の多い朝廷と幕府の関係もこのときばかりは蜜月を保っていたようです。行幸に備えて整えられた多くのの建物は、翌年から次第に撤去され、移築されていきました。行幸の翌年といえば紫衣事件が起きた年でもあります。天皇は幕府の圧迫に腹を据えかねたのか、2年後の寛永6年(1629)に突然、幕府にことわりなく娘の興子内親王(おきこないしんのう)に譲位しています。
興子内親王は後水尾天皇と徳川和子との間に生まれた皇女(明正天皇・めいしょうてんのう)で、譲位を受けて奈良時代の称徳天皇以来の女帝となりました。また東福門院となった和子は後水尾上皇と幕府との間で夫を支え、協調路線回復に尽力したとみられています。
寛永11年(1634)、家光は30万人ともいわれる軍勢を率いて上洛し、二条城で明正天皇や後水尾上皇に謁見しています。朝廷との関係改善が目的だったようです。このとき家光は、当初は認められていなかった上皇の院政を認めたほか、朝廷や公家に対して所領を加増したり、老中や所司代を通じて京都の町人の代表を本丸と二の丸の間にある白洲に集め、市中の37,313世帯へ銀子5,000貫を与えたといわれています。
徳川幕府終焉の舞台となった二条城
寛永11年(1634)の家光の上洛以降、将軍家の入城は幕末まで途絶えることになります。寛延3年(1750)には天守閣が落雷で焼け、さらに天明8年(1788)の大火で本丸を全焼、櫓や門などの一部も焼失しました。その後、失われた殿舎は再建されることなく二条城は衰退し、城の人事も縮小されたためか、寛政9年(1797)には金蔵が破られ、二千両が盗まれる事件も起きています。
幕末、二条城は再び政治の表舞台に立つことになります。文久2年(1862)2月11日、攘夷を条件に和宮降嫁が成立。文久3年(1863)3月4日に徳川家茂が朝廷の要請を受けて上洛、二条城に入城し、7日に参内して孝明天皇に攘夷の決行を誓約しました。徳川将軍の上洛は家光以来229年ぶりのことで、荒れ果てていた二条城は、この前年に修復・整備されていました。家茂はこのあと2度上洛しましたが、慶應2年(1866)7月20日、第2次長州征伐の途中で病没しています。
同年12月、徳川慶喜は二条城で江戸幕府第15代将軍職拝命の宣旨を受けました。幕府が模索した公武合体政策はうまくいかず、土佐藩を中心として大政の奉還が画策されるなか、薩長の武力討幕の動きがますます激しくなっていました。慶喜は慶応3年(1867)10月14日、二条城二の丸御殿の大広間に有力大名を集め、大政奉還を発表しました。
現在、二の丸御殿の大広間には慶喜や藩主らの等身大の人形が配置され、このときの様子が再現されています。 大政奉還は政権を朝廷に返上することを意味しますが、このときの慶喜の判断についてはいくつかの見方があり、あくまで徳川政権の存続を望み、政権再編を模索したとも、尊王恭順のもと朝廷を支えようとしたとも考えられています。結局、同年12月9日、王政復古の大号令というクーデターにより新政府が樹立、慶喜は将軍職を辞して、西門(埋門・うずみもん)から退去して大坂城へ向かうことになります。
そして慶応4年(1868)、年明けの鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗戦し、慶喜は大坂城から江戸へ向かいます。2月3日には二条城に行幸した明治天皇により、二の丸御殿の白書院で討幕のための「徳川慶喜親征の詔」が発せられました。
この詔によって慶喜は明確に逆賊となります。皮肉にも、徳川初代将軍の家康が造った二条城で、徳川最後の将軍、慶喜に征討の命が下されたのでした。その後、旧幕府側の勝海舟と新政府軍参議の西郷隆盛との交渉により、江戸城は無血のまま新政府軍へ明け渡され、明治2年(1869)、慶喜は謹慎を解かれました。
明治4年(1871)、城の役割を終えた二条城の二の丸御殿に京都府庁が置かれましたが、明治17年(1884)から昭和14年(1939)までは二条離宮となりました。現在の本丸御殿は、明治26年(1893)に京都御苑にあった桂宮御殿から玄関、書院、台所、雁の間、御常御殿が移築されたもの。御常御殿は日常の住居で、孝明天皇の妹である皇女和宮(かずのみや)が降嫁する前に過ごされた建物でした。明治29年(1896)には本丸庭園も改造されました。
また、大正4年(1915)には大正天皇の即位の大典が現在の清流園の場所で執り行われました。二の丸御殿の北にある清流園は、昭和40年(1965)に造られた庭園で、池泉回遊式庭園のなかに茶室、和楽庵と角倉了以邸から移築された香雲亭があり、茶会などに使用されています。昭和14年(1939)以降、離宮は京都市に移管され、その翌年から今日まで元離宮二条城として一般公開されています。