六道珍皇寺
(ろくどうちんのうじ)お盆の入りに精霊迎えの六道まいりで賑わう六道珍皇寺。葬送の地であった鳥辺野に近いこの辺りは六道の辻と呼ばれ、この世とあの世の境界とされていました。六道珍皇寺の境内には小野篁(おののたかむら)が冥界に行く時に使ったとされる井戸があります。篁は昼は朝廷に仕え、夜は閻魔の補佐をしていたという不思議な人物です。
山門
山号・寺号 | 大椿山 六道珍皇寺(臨済宗建仁寺派) |
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住所 | 京都市東山区大和大路通四条下ル 4丁目小松町595 |
電話 | 075-561-4129 |
アクセス |
市バス 80,206,207系統「清水道」下車徒歩5分
京阪電車 「祇園四条」 または「清水五条」下車、徒歩15分 阪急電車「河原町」下車、市バス207系統「清水道」下車、徒歩5分 |
六道まいり | 毎年8月7日-10日 |
境内 | 拝観自由。 団体:予約制にて案内あり。800円 夏季えんま詣・寺宝展: 2024/7/13-16, 9:00-16:00(受付9:00-15:30) 詳細は公式サイト参照 |
公式サイト | http://www.rokudou.jp/ |
冥界とこの世を行き来した小野篁
「六道さん」と親しまれ、精霊迎えの「六道まいり」で賑わう六道珍皇寺は、ふだんは人影もまばらで閑散とした寺院です。現在の六道珍皇寺の寺号は明治になって改められたもので、それまでは単に珍皇寺(ちんこうじ)と呼ばれていました。葬送の地である鳥辺山、鳥辺野に隣接するこのあたりは六道の辻と呼ばれ、冥土への入口とみられてきました。六波羅蜜寺や建仁寺も至近の距離にあります。
珍皇寺の創建については明らかではありません。平安初期の延暦年間に大安寺の慶俊(きょうしゅん)が建立したとする説や、鳥部氏の氏寺であった宝皇寺が珍皇寺となった説、承和3年(836)に山代淡海(やましろのおうみ)らが国家鎮守所として建立した説などがあり、愛宕(おたぎ)寺と呼ばれていたともいわれています。愛宕郡は山城盆地のおよそ東半分を南北にのびる広い地域で、珍皇寺の周辺も愛宕郡に入っていました。
珍皇寺はもとは真言宗の寺院で、空海が興隆してしばらくは東寺の末寺となっていました。そのころに小野篁が檀越となり伽藍を整備したといわれています。小野篁は小野氏出身の公卿で、小野妹子を祖先にもち、一説に、小野道風は篁の甥にあたり、小野小町も縁者ともいわれています。篁の父、小野岑守(おののみねもり)は勅撰漢詩集『凌雲集』の選者で、嵯峨天皇の侍講を務めたこともあり、空海とも親交がありました。この面々をみるだけでも小野氏は文人としての才に長けた家系だと思われます。その一方で、武人も多く輩出し、征夷にも関わった氏族です。
弘仁6年(815)に岑守が陸奥守に就任すると、篁は父に随い14歳から19歳までを陸奥で過ごします。当時東北は文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)により蝦夷の反乱がほぼ平定されていましたが、岑守は俘囚の帰順に功を挙げたとされています。篁はその地で弓馬に励み、武芸に熟達しますが、都に戻った篁に、嵯峨天皇は「岑守の子ともあろうが、どうして弓馬の士などになってしまったのか」と嘆いたと伝えられています。そこで一念発起した篁は、21歳で文章生の試験に合格し、官僚の道を進みます。
篁は明晰な頭脳を持ち、反骨精神が強く歯に衣着せぬ物言いで、野宰相、野狂とも呼ばれましたが、一方で詩文や和歌、書に秀で「詩歌の宗匠たり」とか「絶世の大才なり」などと讃えられています。承和元年(834)、篁は遣唐副使に任命され、2度の渡航の失敗のあと、3度目に大使・藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の船に不具合が出たため副使・篁の乗船予定だった船と取り替えられそうになり、これを不満とした篁は、ついに仮病を使って渡航を拒否します。「西道謡」という漢詩をつくって遣唐使を風刺したところ、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐に流されてしまいます。
配流途中に篁がつくったという「謫行吟七言十韻」は「西道謡」と同じく今に伝わっていませんが、『文徳天皇実録』によれば「文章奇麗にして興味優遠なり。文を知るの輩、吟誦せざることなからん」と称賛されています。また同じときに詠まれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」は百人一首にも入る美しくも物悲しい歌です。篁自身も小野氏なので祖先は海人でしょう。嵯峨天皇は篁の詩才を恋しく思ったのか、2年で罪を赦して平安京に復帰させています。
ところで篁にはもうひとつの別の顔がありました。昼間は朝廷に仕え、夜は冥界で閻魔の補佐をしているというのです。六道珍皇寺の境内には篁が冥土に行くときに通ったといわれる井戸があります。そしてこの世に戻るときには嵯峨野の福生寺の井戸を使っていたそうです。福生寺は廃絶されましたが、清凉寺境内にある薬師寺にその法が受け継がれ、あの世からの出口である「生の六道」も薬師寺に移りました。ところが近年、六道珍皇寺脇の土地からも「黄泉がえりの井戸」が発見されています。篁の都合で帰るルートを使い分けていたのでしょうか。
六道珍皇寺の本尊は薬師如来です。また境内の閻魔・篁堂には、木造の閻魔と篁、そして善童子と悪童子の像が安置されています。特別拝観や六道詣りの日は開扉され、目の前でお参りできます。拝ませていただいたところ、篁は180cm超の大男で、顔立ちの整ったイケメンでした。また冥土への井戸も本堂から見せてもらうことができましたが、ふだんは扉に設けられた格子窓からお参りするようになっています。
『今昔物語集』巻20第45話「小野篁依情助西三条大臣語」に、閻魔庁で働く篁の話が収められています。大臣の藤原良相(ふじわらのよしすけ)は病で亡くなったあと、閻魔王宮に連れていかれますが、そこには冥官となって閻魔に仕える篁の姿がありました。学生のときに良相によくしてもらっていた篁は、閻魔大王に「この大臣はとてもいい人。私に免じて許してあげて」と取りなすと、閻魔は「本当はダメだけど…」といって良相を蘇生させます。生き返った良相が内裏で篁と会ったとき、「この前の冥土のことが忘れられない。あれはどういうことなのか」と訊ねると、篁は「昔お世話になったお礼です。でもこのことは誰にも口外しないでくださいね」と答えます。それでも噂は広まって人々は「小野篁はただ者ではない。閻魔王宮に仕える者だ」と怖れたといいます。
地獄絵にみるあの世と精霊迎えの六道まいり
仏教で説かれる六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の世界のことで、亡くなった人が生前の業因によって、必ずいずれかに赴くところとされていました。六道珍皇寺には、この六道と、煩悩のない声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖を合わせた十界を描いた「熊野観心十界曼荼羅」が伝えられています。
実際に観てみると、上半分は人間の一生と仏や菩薩を取り巻く美しい世界が描かれていますが、下半分の地獄、餓鬼、畜生、修羅の部分はあまりにもおどろおどろしい世界です。飢えに苦しんだり、動物に姿を変えられて働かされたり、戦い続けたり、地獄に落ちたものは剣山の上を歩かされたり、舌を抜かれたりと、血と炎がふんだんに描かれるグロテスクな絵画です。人間が一生を終えると、罪の重さを計量されて閻魔の裁きを受けるさまも描かれています。
冥土の審判では生前のどんな些細な罪も見逃してもらえないのだといいます。もしそうなら人間は全員有罪でしょう。そこで人々は、裁判長である閻魔大王に、罪の情状酌量を取り計らってもらうため、地蔵菩薩の弁護を祈ったそうです。冥界の入り口とよばれる六道の辻や六原のあたりはとりわけ地蔵信仰が盛んであったといわれています。
六道珍皇寺は、お盆の入りの8月7日から10日の「六道まいり」に多くの人が訪れて精霊迎えをする信仰があり、期間中、門前には出店も並んで賑わいます。人々は高野槙(こうやまき)を買い、本堂で水塔婆を用意し、「迎え鐘」を撞いて、地蔵尊前で水回向(みずえこう)をします。このときは閻魔・篁堂も開扉されるので、観光目的の参拝者もたくさんみえます。
六道まいりの期間中、境内の迎え鐘は誰でも撞くことができるため、いつも長い列ができています。慶俊が鋳造させたと伝わる迎え鐘について『古事談』には次のように伝えられています。慶俊が唐に渡っている間、3年間は鐘楼の地下に埋めておくよう僧に命じたところ、僧は我慢できずに1年半で掘り出して撞いてしまいます。その鐘の音は唐の慶俊のところまで聞こえて「3年間地中に埋めておけばその後は人手を使わず六時になると自然に鳴るのに」と残念がったという話です。また『今昔物語』巻第31第19話「愛宕寺鋳鐘語」にも、篁が鋳造させた鐘として同じような話が伝えられています。
六道珍皇寺では、鐘の音が唐土にも響くなら、十万億土の冥土にも届き、亡くなった人は黄泉がえりの井戸からこの世に蘇るだろうと信じられ、お盆には時空を超えて響く鐘として人々に撞かれるようになったといわれています。この信仰は室町時代から続いているようです。
中世に荒廃したのち、建仁寺によって再興された珍皇寺は、臨済宗に属しますが、六道まいりの信仰は宗派を超えて人々に浸透しています。高野槙が盛んに売られるのは、篁が井戸を行き来するとき高野槙をつたったといわれることから、あの世の霊も高野槙に乗って帰ってくると信じられてきたからだそうです。お盆の間は、高野槙を家でお供えして飾ります。