鞍馬寺
(くらまでら)鞍馬山全体を寺域とする鞍馬寺は、毘沙門天、千手観音、魔王尊を祀り、古くからその強力な霊験が崇められてきました。また天狗の本拠地として知られる鞍馬山は、源義経が幼少期を過ごし、天狗から兵法を学んだところでもあります。境内にある由岐神社の「鞍馬の火祭り」は京都三大奇祭のひとつに数えられています。
仁王門
山号・寺号 | 鞍馬山 鞍馬寺(鞍馬弘教) |
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住所 | 京都市左京区鞍馬本町1074 |
電話 | 075-741-2003 |
アクセス | 叡山電車 出町柳駅から「鞍馬」下車 |
拝観時間 | 本殿開扉9:00~16:15 霊宝殿:9:00~16:00(火曜休館、12月12日-2月休館) ケーブル始発(上り)8:40 終発(下り)16:25 |
拝観料 | 愛山料:500円 ケーブル寄進:大人・片道200円 小学生以下・片道100円 霊宝殿入館料:200円 |
公式サイト | https://www.kuramadera.or.jp/ |
毘沙門天像が数多く祀られる鞍馬寺
自然の宝庫といわれる鞍馬山は活力という気に満ちています。けれども山奥に分け入ると、昼なお暗く神秘の霊力につつまれた魔界の森が続いています。そこは遠い昔、鬼や天狗たちが行き交い、牛若丸(源義経)が剣術を鍛えたところだといわれています。その一方で、鞍馬山は平安時代の昔から女性たちも訪れた観光地でもあったようです。
仁王門を抜け、少し行くとケーブル駅のある普明殿があります。ケーブルを使うと多宝塔駅まで約2分。そこから鞍馬寺の本堂である金堂までは徒歩約15分。ケーブルを使わずに登ると金堂までは30分くらい。清少納言が「近うて遠きもの」として挙げたなかに「鞍馬のつづらをりといふ道」がある通り、頂上は近いはずなのに、なかなか辿り着けない九十九折りの坂を登ります。それでもケーブルを使うと見逃す史跡も多いので、初めての人はたいてい歩いて登るようです。なお、奥の院まで行くと貴船側の西門に降りるのが近く、貴船から奥の院を参拝するひとも見かけます。
京都の寺院のなかで、鞍馬寺はスケールも違えば、印象も独特なものがあります。鞍馬寺の本尊である「尊天」とは、毘沙門天、千手観音菩薩、護法魔王尊の三尊を一体として、生きとし生けるものすべてを慈しみ、この世のすべてを生み出す宇宙のエネルギーそのものだといわれています。すごくパワフルです。なかでも毘沙門天は、古くから鞍馬寺に伝統的に祀られてきました。
鞍馬寺の『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』には以下のような話が伝えられています(大意)。
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奈良時代末の宝亀元年(770)、唐招提寺の鑑真の高弟、鑑禎(がんてい)は夢の中で高僧に会い「山城国の北方に聖なる地がある」と告げられた。高僧はまた「明朝、東方に瑞祥が現れる」とも言った。夜明けに空を見ると天に蓋をしたような巨大な白馬が宝の鞍を載せて現れた。鑑禎は白馬に導かれて鞍馬山に登った。途中で鬼が出たが、毘沙門天に救われた。鑑禎は草庵を建て、そこに毘沙門天を祀った。これが鞍馬寺の始まりという。
その後の延暦15年(796)、造東寺長官であった藤原伊勢人(ふじわらのいせど)は、自分の寺を建て、観音菩薩を祀りたいと願っていた。
ある日、伊勢人は夢の中で「京の北の山に聖地がある」と告げられた。白馬に乗り聖地を目指していると、貴船明神と称する老翁が現れ、霊験の優れた山として鞍馬を暗示したが、伊勢人にはそれがどこなのか分からなかった。そこで白馬を放ち、導かせると鞍馬山にたどり着いた。そこには毘沙門天が立っていて、他国の人が造った像のようだったという。
観音を祀りたいという意に反して毘沙門天が現れたので、どうしたものかと迷っていた伊勢人は再び夢を見た。毘沙門天の侍者の善膩師童子(ぜんにしどうじ)が現れて、「疑うことはない、観音は毘沙門なのだ。般若経と法華経のように名は異なるが同体のものだ」と説かれた。そこで伊勢人は安心して草庵を建て直し、ありがたく毘沙門天を祀り、何年か後に宿願であった千手観世音菩薩を並べて安置したという。
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初めに僧が夢告を受けて聖地に草庵を建て、のちに財力のある官人が寺として伽藍を整えるという話は、清水寺の成り立ちとよく似ています。当時、桓武天皇は私寺の造営を厳しく取り締まっていました。坂上田村麻呂は朝廷に蝦夷征討の功績を認められて、難なく清水寺を建てることに成功し、和気清麻呂は平安京遷都に尽力して神願寺(じんがんじ)を建てることを認められました。一方、伊勢人も何とかして観音菩薩を祀る寺を建てたかったようです。藤原氏には篤い観音信仰がありました。けれども最初に祀ったのは毘沙門天像でした。
伊勢人が夢に見た「他国の人が造ったような」毘沙門天は、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)を指します。兜跋はチベットを意味し、その像は西域風の長い外套を身にまとい、頭上には異国の冠のような兜を戴いています。鞍馬寺の兜跋毘沙門天は、当時、唐から伝えられ、王城守護のために羅城門の楼上に安置されていた毘沙門天像を模して造られたといわれています。その像は大治元年(1126)の火災で失われてしまいましたが、鞍馬寺には多くの毘沙門天像が祀られ、現在霊宝殿に安置される兜跋毘沙門天像は鎌倉時代の作と伝わっています。
『大宋高僧伝』には、唐の天宝年間(742-755)に、インドの僧、不空の法力によって呼び出された毘沙門天と神兵500人が、新疆省(しんきょうしょう)にあった安西府を護ったという伝えがあり、ときの皇帝玄宗は毘沙門天の出現をよろこんで、以後、城の楼上に毘沙門天王を祀るようになったといわれています(「唐京兆大興善寺不空伝」)。この外敵を防ぐ毘沙門天信仰はのちに日本にも伝播しました。現在まで東寺に伝わる兜跋毘沙門天像は、延暦23年(804)に出発し、翌年帰国した遣唐使が持ち帰ったものとみられ、かつては羅城門の楼上に置かれていたといわれています。
『類聚国史』の伊勢人の薨伝によれば、藤原朝臣伊勢人は、藤原南家の武智麻呂(たけちまろ)の孫、巨勢麻呂(こせまろ)の第7子で、官人として従四位下まで昇り、天長4年(827)3月13日に69歳で亡くなっています。すると、伊勢人は造東寺長官(東西造寺長官とも)時代に唐から伝えられた兜跋毘沙門天像を知っていた可能性があり、皇城の北を護る武神として、まず鞍馬寺に兜跋毘沙門天を祀り、都の守護に貢献したのかもしれません。
鞍馬寺の毘沙門信仰は以後も続きます。寛平年間(889-98)の宇多天皇の時代に、東寺の峯延(ぶえん)が鞍馬寺の別当に任じられ、鞍馬寺は真言宗の寺となりました。『拾遺往生伝』によれば、ある日、峯延が毘沙門堂のそばで焚火をしていると鬼が襲ってきたが、毘沙門天の呪文を称えると大木が倒れて鬼が下敷きになったと伝えられています。またある時、峯延が毘沙門堂で勤行をしていると山奥から大蛇が出てきたが、再び毘沙門天の呪文を称えるとたちまち大蛇が斬られて倒れてしまったと語られます。
この古事にちなんで鞍馬寺では「竹伐り会式」が千年以上続いています。僧兵の姿をした鞍馬法師が青竹を大蛇に見立てて5段に斬るという古儀で、毎年6月20日に行われています。
鞍馬寺にはとにかく多くの毘沙門天像が安置されています。霊宝殿にはかつて本殿に祀られていたという国宝の毘沙門天像と吉祥天、善膩師童子の三尊像があります。この毘沙門天は左手を額にかざし、なぜか苦悶に満ちた表情で、彼方を遠望する独特のポーズをとっています。
ところで北方の武神である毘沙門天は都の北で王城を守護する武力の象徴でしたが、民衆にとっては福徳を授けてくれる神でもあったようです。伊勢人の伝説に宝の鞍を載せた白馬が現れるのはそれを象徴しているようにも思えます。
『今昔物語集』巻第17-44話「僧依毘沙門助令産金得便語」によれば、延暦寺の学僧が貧乏に困って鞍馬寺に参詣して福を祈ったところ、そこで出会った童に僧の家に連れて帰ってくれと頼まれます。じつはこの童、女性でありました。学僧が魅力に負けて一線を越えてしまうと、そのうち子どもができたと聞かされます。やがて女が出産し、僧が部屋を見に行くと、母子の姿はなく衣の下に黄金の塊が置いてありました。それで僧は大金持ちになったと語られています。
また鞍馬寺は女性たちが訪れる観光スポットでもありました。平安時代には、清少納言が九十九折りの道を嘆いていますが、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は『更級日記』で、春に鞍馬寺に参籠したとき「山際かすみわたり、のどやかなるに」と記し、このときは「花もみな散りはてにければ」と時期を逃し、同じ年の10月に再び参籠して「山の端、錦をひろげたるやうなり…」と紅葉や風景美を愛でています。室町時代には、足利義政の妻、日野富子が応仁の乱のときに鞍馬山に花見に出かけようとして止められたこともあったようです。
平安時代後期になると鞍馬寺は天台宗の寺になります。その頃は浄土教が盛んで、延暦寺から鞍馬寺に入った重怡(じゅうい)は丈六の阿弥陀像を安置し、6年間山門を出ずに念仏を称えたと伝えられています。また都では同時期に弥勒信仰も高まり、貴族たちは、56億7千万年後にこの世に弥勒菩薩が現れるとき、自分もその場に居合わせたいと願っていました。そこで僧に写経をさせて、経典を筒に納め、経塚に埋めるという風習が流行しました。鞍馬寺の経塚からも、経筒や経典のほか仏像や宝塔などの埋蔵品が出土しています。当時の人々は、現世の福徳を祈りながら、2度とこの世に還って来なくていいように極楽往生を願いつつ、弥勒が現れる未来にはこの世に戻っていたいと祈っていたようです。
本殿金堂前まで登ると一転山が開け、平地が広がります。金堂内陣には中央に毘沙門天像、向かって右に千手観音菩薩像、左に護法魔王尊像の三尊の御前立が安置されています。秘仏の本尊三尊は60年に一度、丙寅の年に開扉されるといわれています。ということは次の開扉は2046年? 御前立の魔王尊は行者姿で髭を蓄え、背中に羽根が生えた天狗です。
奥の院魔王殿と鞍馬天狗の伝説
鞍馬寺の奥の院魔王殿には、650万年前、金星から降り立ったといわれる護法魔王尊が祀られています。鞍馬山の地層は太古の石灰岩や珊瑚礁を含み、さらにマグマの隆起による火成岩が地表近くに形成されたそうです。そこから生まれた自然の生態系は、現在も鞍馬固有のさまざまな動植物を育んでいます。太古の人々がこの巨大な自然のエネルギーを畏れ崇めたことは容易に想像できます。
その魔王尊はいつの頃からか天狗の総帥とみなされるようになりました。天狗の正体については諸説あり、中には西欧から移ってきたという説もあります。山に住む魔物で鳶の化け物とも思われていました。一方、古代から、神秘的な自然の力を想うがままに操るために、霊山と呼ばれる聖地には修験道に励む行者がたくさんいたので、この山岳修験者や山伏たちの姿が超人的な天狗と重なった、というのが有力らしいです。いや、でもわかりませんよ…。
平安時代、天狗の一大拠点は愛宕山でした。天狗たちの格付けは愛宕山の太郎坊にはじまり、比良山の次郎坊、高野山の三郎坊、那智山の四朗坊と続きます。鞍馬の天狗は僧正坊と呼ばれましたが、中世まではかなり格下の存在でした。『太平記』には「鞍馬の僧正ガ谷で、愛宕や高雄の天狗どもが義経に兵法を授けた」ことが記されています。天狗たちが義経のためにわざわざ愛宕や高雄から鞍馬にやってきたというのです。
源義経は7歳からの10年間を鞍馬寺で過ごしています。牛若丸と名乗っていた頃です。平治の乱で父、義朝が討たれ、兄である頼朝は伊豆へ流されました。鞍馬寺へ預けられた義経は平氏打倒を胸に秘め、学問と剣術の稽古に励んだそうです。そのため山内には義経ゆかりの史跡が数多く遺されています。また鞍馬寺には義経が使ったとされる鎧兜も伝わっています。奥の院へはうっそうとした杉木立の中、木の根道が続きますが、義経はこの木根道で足腰を鍛えたそうです。古い岩盤が地表近くに迫っているため、木の根が地中深くに根ざすことができず、地表に根を張るのだといわれています。
平安時代に格下だった鞍馬天狗は、中世になると天狗たちの頭領である大天狗となって語り継がれます。能の『鞍馬天狗』の物語にもそれが窺えます。ある日、鞍馬寺の僧侶たちが牛若丸を連れて花見に出かけるのですが、山伏に出くわして一行は牛若丸を残して逃げ帰ってしまいます。山伏は牛若丸に花の名所を案内してやったあと、自分はこの山に住む大天狗だと名乗り、平家打倒のための兵法を授けるから明日またここへ来い、と言って去って行きました。翌日、義経が同じ場所に行くと大天狗が各地の天狗を引き連れて現れ、兵法を伝えたことになっています。
また『御伽草子』の「天狗の内裏」では僧正ガ谷のさらに奥深くの沢を登ったところに天狗の内裏があり、大天狗となった鞍馬の天狗が宮殿の紫宸殿に住み、各地の天狗が参集したと語られます。さらに江戸時代になると、鞍馬の僧正坊大天狗は毘沙門天が垂迹した姿だと流布されて、「鞍馬山魔王大僧正」と記したお札まで頒布されるようになりました。天狗は魔物などではなく、厄災の守り神に変身したのです。
僧正ガ谷不動堂を過ぎると奥の院魔王殿があります。拝殿奥の磐座に本堂が建っていて、ここは鞍馬寺随一の聖地とされています。たしかに深閑とした空気に包まれています。その西側の谷を貴船川が流れていて、貴船側に山を降り、鞍馬寺の西門を出るとすぐのところに貴船神社が建っています。藤原伊勢人が夢で出会った貴船明神とは、この貴船神社の神さまなのです。クラマに導いたのだから、奥宮の闇龗神(くらおかみのかみ)だったかも…?
鞍馬の火祭の社、由岐神社(ゆきじんじゃ)
鞍馬寺の鎮守社であり、鞍馬寺門前の産土神となっている由岐神社は、魔王の滝を過ぎて、急な坂道の途中にあります。なお京都三大奇祭のひとつである「鞍馬の火祭り」はこの由岐神社のお祭りです。
天慶3年(940年)、御所に祀られていた由岐大明神が朱雀天皇の勅により、鞍馬に遷宮されたのが由岐神社の始まりといわれています。そのころ都は地震や平将門の乱などで騒然としていたため、鎮護を願ってのことでした。道中にかがり火を炊き、鴨川の葦で作った松明を掲げた行列は1キロほども続いたそうです。これが「鞍馬の火祭り」の起源といわれ、毎年時代祭と同じ10月22日に行われています。
由岐神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)で、この2神の総称が由岐大明神とされています。また由岐神社には八所明神も相殿に祀られています。「鞍馬の火祭り」の日は、由岐大明神と八所明神が本殿からそれぞれ2基の神輿に遷り、神輿が仁王門前に安置されます。夜になると鞍馬の若者たちが燃える松明を担いで練り歩き、仁王門を目指します。
10年以上前に友人と連れ立って初めて火祭りを観たとき、闇の中、狭い道を大きな松明を担ぎ「サイレーヤ、サイリョー」と掛け声をかけながら氏子が練り歩くさまは、艶やかな彩りに包まれる京都の祭りとはまったく別の幽玄の世界を感じました。夜が更け、門前に大松明が到着すると、ひとところに集められ、燃え盛る炎とひしめき合う人々で祭りは最高潮に達します。その後、神輿は仁王門から石段下に引かれ、神事が行われます。
現在の由岐神社は豊臣秀頼によって慶長15年(1610)に再建されたもので、急な坂道の階段をまたぐように拝殿が立っています。この構造は割拝殿(わりはいでん)と呼ばれ、石段部分がちょうどトンネルのようになっています。さらに高低差のある場所に建てるため、清水寺にみられるような懸造りの技術も組み合わされて、とても珍しい建築物です。