来迎院
(らいごういん)三千院を横切り、呂川(ろせん)に沿ってさらに山道を登っていくと、緑に囲まれた静寂のなかに来迎院が建っています。来迎院は天仁2年(1109)に良忍によって建立されました。良忍は魚山声明を統一して発展させるとともに、融通念仏を開いた僧として知られています。
山門
山号・寺号 | 魚山 来迎院(天台宗) |
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住所 | 京都市左京区大原来迎院町537 |
電話 | 075-744-2161 | アクセス | 京都バス 京都駅から17,19系統で「大原」下車徒歩10分 地下鉄「国際会館」から京都バス19系統で「大原」下車徒歩10分 京阪電車「出町柳」から京都バス19,17系統「大原」下車徒歩10分 叡山電車「八瀬比叡山口」から京都バス「八瀬駅前」116,19系統で「大原」下車徒歩10分 |
拝観時間 | 9:00~17:00 |
拝観料 | 大人400円 中高校生300円 5月・11月は宝物展につき大人500円 |
魚山声明と融通念仏(ゆうづうねんぶつ)の祖、聖応大師・良忍
来迎院や三千院、勝林院などが建つこのあたりの山号を魚山(ぎょざん)といいます。これは中国声明発祥の地が魚山であったことに由来します。9世紀半ばに最澄の直弟子であった円仁が唐に留学中、五台山の太源(タイユワン)で声明を学び、比叡山に伝えました。その後、円仁は太源になぞらえて大原の地を声明の根本道場と定めたと伝えられています。声明とは経文に音曲のような節をつけて唱えるもので、のちの今様や浄瑠璃、謡曲などにも大きな影響を与えました。
円仁は唐から伝えた多くの声明曲のうち、特に5つの大曲には専門の弟子を定めて相伝しましたが、のちに良忍がその5曲である「長音供養文」「独行懴法」「梵網戒品」「引声念仏」「長音九条錫杖」のすべての法脈を相承しています。比叡山を下り、大原に隠棲した良忍は、天仁2年(1109)、38歳のときに来迎院を建立し、諸流に別れていた天台声明を魚山声明として統一したと伝えられています。そのため、良忍は魚山声明の祖とも、天台声明中興の祖とも呼ばれています。
良忍は延久4年(5年説もあり)(1072)に尾張に生まれ、13歳で比叡山東塔檀那院に入り、兄の良賀について出家しています。その後、常行三昧堂の堂僧として雑務に励むかたわら、天台の教相や観心、顕教、密教などを学び、円頓戒を受ける一方、天台声明の奥義も相承しました。そんな良忍ですが、23歳で比叡山を下り、大原に隠棲したといわれています。ただし三善為康の『後拾遺往生伝』によれば、晩年に大原に移ったとも。なお、東塔時代は良仁と書き、隠棲後に良忍と名の表記を改めています。
大原に下った良忍は、勝林院の永縁(ようえん)の室に入りました。『後拾遺往生伝』や蓮禅による『三外往生伝』によれば、良忍は毎日「法華経」一部を誦し、念仏6万回を称え、廻向のために「如法経」6部を書写したといわれています。また手足の指を切り、燃やして仏や経に供養したとも伝えられています。本当ならちょっと激しすぎます。その後この地に来迎院と浄蓮華院を創建した良忍は、如来堂を建てて大乗三蔵の仏典を収め、しばしば典籍を研究していたようです。良忍は広く深い学識をもった僧でした。
魚山声明を確立した良忍は本願上人と呼ばれ、来迎院を上院本坊として多くの坊が統率されました。これに対して勝林院が下院本坊となります。良忍のあと魚山声明は、家寛、湛智、喜淵などの弟子たちによって受け継がれるなかで、その楽譜も、文字に対応して個々の音を表す五音博士(ごいんはかせ)から、旋律を線で表す目安博士(めやすばかせ)に改良されていきました。目安博士は旋律の再現が容易で、現在の声明も目安博士が使われているそうです。
良忍は永久5年(1117)、46歳のとき阿弥陀如来の示現を感得したといわれています。『古今著聞集』巻第2-53には、その夏、良忍がまどろんでいると夢に阿弥陀如来が現れ「一人の念仏を衆生に融通して往生させなさい。また汝も他の人の念仏の力を借りて往生しなさい」といい、念仏が融通すれば自他ともに往生できるとする円融念仏(融通念仏)の教えを授けたと伝えられています。また、このとき阿弥陀は「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」の偈を良忍に授与したとも。
『古今著聞集』の説話には次のような続きがあります。良忍はその後、広く念仏勧進を行い、念仏帳に3,282人の結縁者の名前を記すことができた。さらに、ある早朝「青衣きたる壮年の僧」が現れ、念仏帳に名を加えるといって忽ち去ってしまったが、念仏帳を見たところ「我は仏法擁護の者で、鞍馬寺の毘沙門天なり。念仏結縁の衆を守護せんがために来たところなり」と記され、512人の名が連記されていた。そして天承2年(1132)正月4日、鞍馬寺で念仏中の良忍の夢に、梵天以下、三千世界の諸神が現れて結縁した、という話です。
『著聞集』にはしきりに鞍馬寺の守護神との縁が語られています。平安後期、鞍馬寺は天台宗の寺となっていたので、良忍は鞍馬寺でも勧進を行ったのかもしれません。良忍と同世代の重怡(じゅうい)は比叡山で顕密を学んだあと、鞍馬寺に入り念仏修行に明け暮れていました。
なお、紀州の粉河寺(こかわでら)の裏手の経塚から、良忍ほか6名の僧によって奉納された経筒が出ていますが、銘文には法華経と書かれ、こちらは法華勧進だったようです。
大治2年(1127)、良忍は鳥羽上皇の勅願を受けて摂津平野に根本道場として修楽寺を建立し、これがのちに大念仏寺となります。融通念仏の教えは、良忍の没後に多くの絵巻『融通念仏縁起』が作られ流布されています。鎌倉中期には、融通念仏を中興した円覚上人により大念仏狂言が生まれ、清凉寺や壬生寺、千本閻魔堂や神泉苑に伝えられていきました。
来迎院は応永33年(1426)に火災に遭い、数多くあった堂塔伽藍をすべて焼失しています。現在の本堂は天文年間(1532-55)に再建されたもの。そのせいか、天井に描かれた天女や長押の楽器などの彩色は色鮮やかに残っています。そしてそれとは対照的に、安置される仏像はとても古いものばかりです。
お寺の方の案内によれば、本尊の薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来は応永の罹災時にそれぞれ別の堂塔から運びだされたものだそうで、今は本堂に揃って祀られています。三尊のなかで薬師如来が目立って大きいのは、そのことを示しているのかもしれません。なお良忍が大原に入る以前の藤原時代後期から院政期には、この地は台密谷流(皇慶流)の密教が栄えていたといわれています。薬師如来は台密谷流の名残なのかもしれません。
三尊は、木像漆箔寄木造で藤原時代のふっくらとした柔和な面持ちの如来さまで、脇侍には同じく藤原時代に造られた不動明王と毘沙門天が祀られています。