神泉苑
(しんせんえん)神泉苑は、もとは平安京内裏に接する禁苑で、皇族らが歌会や狩りや釣り、舟遊びなどに興じた苑地でした。やがて祈雨の霊場となり、怨霊の祟りを鎮めるための御霊会(ごりょうえ)が始まった地でもあります。江戸時代に真言宗の寺院となりました。
神泉苑
寺号 | 神泉苑(東寺真言宗) |
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住所 | 京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町167 |
電話 | 075-821-1466 |
アクセス | JR(リンク:JRおでかけネット)「二条駅」から徒歩7分 阪急「大宮」から徒歩10分 地下鉄 東西線「二条城前」下車徒歩5分 市バス 15系統「神泉苑」下車 9,50系統「堀川御池」から徒歩5分 京都バス 63,65,66系統「神泉苑前」下車 |
拝観 | 境内自由(7:00-20:00) |
公式サイト | http://www.shinsenen.org/ |
貴人のレジャー施設から祈雨の霊場、御霊会の舞台となった神泉苑
二条城の南にある神泉苑の池には龍が住んでいるといわれています。その龍とは空海が北天竺から勧請した善女竜王(ぜんにょりゅうおう)です。陰陽道によれば、神泉苑の場所は龍の水飲み場(龍口水)にあたるとされています。
現在の神泉苑の境内は、押小路(おしこうじ)と御池通り(おいけどおり)に挟まれた小さな敷地にあります。けれども、平安遷都まもなく造営されたといわれる当時の神泉苑は、平安京大内裏の南東部に接して東西約220m、南北約440mに広がる大きな禁苑でした。
敷地には太古から存在したといわれる自然の大池や森林などを取り込んだ大庭園が配され、池の北側には正殿の乾臨閣(かんりんかく)が建てられていました。またその両側には右閣、左閣があり、さらにそこから池へと釣殿が続いていました。滝殿や後殿なども建てられ、皇族・貴族らが遊ぶ広大なレジャー施設が営まれていたのです。ちなみに御池通りの名は神泉苑の大池に由来するといわれています。
神泉苑では水鳥を捕える遊猟や、魚釣り、舟遊び、詩歌管弦、観相撲、花見の宴などが楽しまれていました。桓武天皇は延暦19年(800)に初めて神泉苑に行幸されて以来、生涯に27回、平城天皇は8回、嵯峨天皇は43回、淳和天皇は23回も訪れています。
禁苑として始まった神泉苑ですが、度々祈雨の法要が営まれていました。東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)が、神泉苑で祈雨の法力を競った面白い伝承が『今昔物語』修請雨経法降雨語(巻第14第41話)に収められています(大意)。
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天長元年(824)の春は一滴も雨が降らなかった。淳和天皇は空海を呼び、神泉苑での請雨祈祷を命じたが、西寺の守敏は先に自分に祈願させてほしいと願い出た。守敏は当時仏教界の一大スターであった空海をよく思っていなかったため、何としても自分が先に手柄を立てたかった。結果、守敏は7日間の祈雨でわずかに雨を降らせたが、都を潤すにはほど遠かった。
次は空海の番になった。ところが7日間の祈雨でやはり雨は降らない。「おかしい…」と思った空海が心眼を凝らして真実を見極めたところ、雨を降らせる龍神は守敏の呪いで水瓶に閉じ込められていたのだった。しかし善女龍王だけは守敏の呪いを免れて天竺(インド)の無熱池(むねついけ)にいたことを空海は知る。
天皇の許しを得てさらに2日間の法要をしたところ、天竺の善女龍王は神泉苑の池底に迎えられ、金色の水しぶきを上げた。こうして待ちに待った雨が都に降り注いだのであった。
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以後、旱魃の際には神泉苑で何度も祈雨が行われました。恵運、常暁、安慧、真雅、教日、宗叡、益信、観賢、聖宝…など鎌倉時代に至るまで数多くの僧が、請雨経法、孔雀経法、太元帥法など密教系のさまざまな修法を用いて祈雨に臨んだといわれています。ちなみに山科の随心院の仁海(にんがい)は9回祈って9回とも雨を降らせたことで有名です。
平安時代、大池にこんこんと湧き出る水は人々にとってまさしく神泉でした。貞観4年(862)9月に庶民の井戸が枯れてしまったときには、神泉苑の池の水が飲料水や生活用水として開放されています。
神泉苑は御霊会発祥の地でもあります。平安時代、疫病が流行したり、天変地異が起こると怨霊や物の怪(もののけ)の祟りと恐れられました。貞観5年(863)には政争や陰謀に巻き込まれ非業の死を遂げた人々(早良親王、伊予親王、その母藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂)の怨霊を鎮めるため、神泉苑で国家行事として初めて御霊会が修されています。御霊会では般若心経や金光明経の読経だけでなく、音曲や舞踊なども奉納され、庶民の出入りも許されました。また、貞観11年(869)の御霊会では八坂神社から3基の神輿が神泉苑に渡御したと伝えられています。
ところで、水鳥が多くやってくる神泉苑の池の中島には五位鷺(ごいさぎ)が住むともいわれ、そのもとになった伝えが『源平盛衰記』の「蔵人鷺を取る事」の段に語られています。
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醍醐天皇が神泉苑に行幸されたとき、天皇は池の汀にいた鷺(さぎ)をみて、蔵人(くろうど)に捕るよう命じた。蔵人が近づくと鷺は飛んで逃げようとしたので、蔵人はこれは宣旨だと言うと、鷺はおとなしく捕らえられて天皇の前に参じた。天皇は「勅に従って飛び去らずに参るとは神妙な鳥だ」と言って、鷺の羽に御宸筆で「汝は鳥類の王たるべし」としたためた。
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この話がのちに謡曲「鷺」に転用されて、鷺は正五位を授かったとされ、五位鷺とよばれるようになりました。
平安後期以降、神泉苑は衰退し、南北朝の戦乱や応仁の乱で荒廃しました。江戸時代になり、二条城造営のため神泉苑は寺地を大きく削られますが、そのお返しとしてか、二条城建設奉行の板倉勝重らの援助により再興され、慶長2年(1607)に神泉苑は東寺の管轄の寺となり、護国寺の号を賜ります。しかしその後も度々火災に遭い、平安時代当初、約12万平方メートルあった敷地は今はわずかに4,400平方メートルとなっています。
本堂の観音堂には、聖観世音菩薩、不動明王、弘法大師が祀られています。また、境内には年ごとに恵方に向きを変えるという恵方社があります。また神泉苑の祭礼は毎年5月の連休に行われています。また現在、神泉苑大念仏狂言は、11月に行われるようになりました。