六波羅蜜寺
(ろくはらみつじ)鴨川の東、五条通から大和大路を北へ、または、東山通から松原通を西へ行くと六波羅蜜寺が建っています。六波羅蜜寺の基礎を築いた空也上人は、沙弥として五畿七道をめぐるなかで、橋を架け、井戸を掘り、道端の亡骸を葬り、疫病から人々を救い、庶民に念仏を広めた念仏聖でした。宝物館では有名な空也上人像、平清盛坐像など名宝が拝観できます。
本堂
寺号 | 六波羅蜜寺(真言宗智山派) |
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住所 | 京都市東山区五条通大和大路上ル東 |
電話 | 075-561-6980 |
アクセス |
市バス 206系統「清水道」下車徒歩7分 京阪電車 「清水五条」下車、徒歩7分 阪急電車「京都河原町」下車、徒歩15分 |
拝観時間 | 8:00-17:00 令和館:8:30-16:45(16:30受付終了) |
拝観料 | 境内:無料 令和館(宝物館): 大人 600円 大/高/中学生 500円 小学生 400円 (30名以上の団体は50円割引) |
公式サイト | https://rokuhara.or.jp/ |
わが国の念仏の祖師、空也(くうや)
膝丈ほどの短い鹿皮の衣をまとい、左手には鹿の角をつけた杖をもち、右手に持った撞木(しゅもく)で、首からかけた金鼓(ごんぐ)を打ち鳴らそうとする動作がキャプチャーされている。素足に草履を履き、少年のような小柄な体躯は、なお凛として、口からは南・無・阿・弥・陀・仏の念仏を表す小さな仏を吐き出している。(公式サイト重要文化財ページ参照)。
これがかの有名な空也上人像で、運慶の四男、康勝の作と伝えられています。奇抜なデザインからは、空也上人の人柄までも伝わってくるようです。
空也上人は醍醐天皇の皇子ともいわれていますが、明らかではありません。延喜22年(922)に尾張の国分寺で出家して空也と名乗り、沙弥(さみ・具足戒を受けていない修行僧)として五畿七道をめぐったと伝えられています。その際、道路を修造し、橋を架け、屍を見れば「南無阿弥陀仏」と称えて火葬し、庶民に救いの道を広めたと伝えられています。鎌倉時代に出た鴨長明は『発心集』のなかで空也を「わが国の念仏の祖師」と記しています。
ひとたびも 南無阿弥陀仏といふ人の
蓮(はちす)の上に のぼらぬはなし
(『拾遣和歌集』)
これは空也が詠んだとされる有名な歌で、一度でも南無阿弥陀仏と称えたなら、誰でも死後、仏さまと同じ蓮の葉の上に成仏できる、と民衆に説いていました。法然が専修念仏の教えを説いた頃より230年も前のことです。
もっとも、阿弥陀仏を信仰する浄土教は、飛鳥時代後期に日本に伝来し、斉明天皇7年(661)には、遣唐使であった飛鳥寺の道昭によって、唐の善導(ぜんどう)が説いた称名念仏の教えも伝わっていました。その後、浄土教は南都諸寺で研究が進められ、平安時代になると天台宗を中心に体系化されていきますが、それは阿弥陀仏と極楽世界を観念する観想念仏が主体で、貴族に向けた教えでした。
尾張で出家したあとの空也の足取りは伝説的ですが、播磨の峯合寺で数年をかけて一切経論を読み、阿波へ渡ったのち、東国、出羽奥州へと遊行したといわれています。天慶元年(938)、36歳のころ、空也は京都に入り、市中で乞食をしてはその恵みで仏事を行っていたそうです。当時平安京では東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)があり、空也は庶民の間で賑わっていた東市を布教の拠点としていたため、市聖(いちのひじり)と呼ばれました。東市の近くには刑場もあり、囚人から見えるよう、牢獄の門のあたりに卒塔婆を建て、尊像を安置したともいわれています。
天暦2年(948)、空也は比叡山の座主、延昌のもとで大乗戒を受け「光勝」の号を授けられましたが、沙弥名である「空也」の名を改めることはありませんでした。
天暦5年(951)、京都に疫病が大流行します。このとき空也は悪病退散のため一丈(約3m)の十一面観音菩薩を造り、荷車に安置して踊りながら念仏を称え、市中をめぐったといわれています。また病人には、青竹を八葉の蓮の葉のように割り、茶を点て、中に小梅と結び昆布を入れて飲ませたところ、疫病が鎮まったとも。このお茶は皇服茶(おうぶくちゃ)と呼ばれ、六波羅蜜寺ではお正月に参拝者に授けられます。一方、京都の一般家庭では大福茶といって元旦にいただく習慣があります。
さらに空也は天暦4年(950)から金泥の大般若経600巻の書写を始め、13年をかけて応永3年(963)に完成させ、鴨川のほとりで金字大般若経の大供養会を修しました。字数にして六百万字、使われた金泥の紺紙は10331枚といわれ、この大事業にはおそらく大寺院の支援があったとみられています。空也は、受戒した比叡山のほかに、興福寺や長谷寺、清水寺などとも接点があったと考えられています。
供養会には約600人の僧侶が参集し、左大臣、藤原実頼らも結縁したようです。供養会の願文は、南無阿弥陀仏を称え、貴賤の別なく後生の浄土と現世安穏を願い、あたりに捨てられた古今の骨にいたるまで救われることを祈るものであったと伝えられています。
この供養会と前後して空也は六波羅に西光寺の建立し、造像した十一面観世音菩薩や四天王像などを祀りました。西光寺は六波羅蜜寺の前身です。空也は天禄3年(972)に70歳で亡くなりますが、その5年後、弟子の中信(ちゅうしん)によって六波羅蜜寺と改められました。
六波羅の地蔵信仰と、六波羅蜜寺の踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)
六波羅は六原とも書かれ、平安京の洛外である鴨川の東、南北は七条から松原通のあたりを指します。六原の東方の鳥辺野や鳥辺山は葬送地で、鴨川の河原を含め、古代から火葬が行われていました。このことから髑髏原(どくろはら)と呼ばれていたのが六原となった、という説があります。六波羅蜜寺の寺号は六原の地名と、六波羅蜜の六種の修行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を合わせたものといわれています。
六波羅蜜寺には、本尊の十一面観世音菩薩立像や、先に挙げた空也上人像をはじめ多くの名宝が所蔵されています。そのひとつに有名な平清盛坐像があります。この清盛の姿は書物やドラマでうかがい知る傲慢で野心家のイメージとはほど遠く、出家して経巻を手に、ただ静かに仏の道を内観する入道の像は、どこか生まれながらに品性を備えた高貴な人のように映ります。そのほか地蔵菩薩立像・坐像、閻魔王坐像なども安置されており、六原で広まった地蔵信仰、閻魔信仰を物語っています。
空也上人の檀越(だんおつ)であった大納言・藤原師氏(ふじわらのもろうじ)が亡くなったとき、空也は棺の前で閻魔に宛てて師氏(もろうじ)への特別の配慮を願う手紙を書き、僧に読ませたといわれています。言うまでもなく閻魔は冥界で死者の罪業を裁く十王のひとりです。
また、『今昔物語集』第17第21話には次のような話も伝えられています。
但馬の国司だった(某)国挙(くにたか)が急死して閻魔庁に呼ばれたとき、国挙は地蔵菩薩の化身である小僧に泣きながら助けてほしいと訴えた。小僧は「生前お前は女性にふけり、多くの罪業の種をまいただろう」と言うので、国挙はもし助けてもらえたら財を捨て地蔵に帰依すると誓った。そこで小僧は冥官と相談して、試しに国挙を甦らせた。生き返った国挙は出家し、仏師定朝に願って地蔵菩薩を造り、法華経を書写して六波羅蜜寺に安置した。
あの世に行った者が地蔵菩薩に頼り、情状酌量を計らってもらうという地蔵信仰は、平安後期から盛んになったといわれています。
昭和40年、六波羅蜜寺の解体修理の際、須弥壇下から小さな五輪塔形の泥塔(でいとう)約8,000基が出土しました。『山槐記』には平清盛の娘、徳子が懐妊した際、平家一門が安産祈願・男子誕生を祈願して泥塔を造ったと記されています。また地蔵信仰においても、地蔵菩薩は死者に、冥途からの甦りの条件として泥塔を作って供養せよ、と説いたとされています。泥塔には老若男女多数の指紋が残っているそうで、土をこねて泥塔を作り、供養した当時の庶民信仰を知ることができます。
ところで、六波羅蜜寺に伝わる宗教行事として有名なものに、空也踊躍(ゆやく)念仏があります。この法要は国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年12月13日から除夜まで行われ、大晦日以外は一般の参拝が許されています。この期間は連日多くの参拝者が本堂に集まり、外国からの観光客もお参りします。数名のお坊さんが踊り?ながらお経を称え、内陣を回る独特の法会です。初めに和尚さんから説明があり、お経の最後に合図されると「モーダーナンマイトー」と参拝者全員で唱和します。
空也踊躍念仏は代々住職により口伝で継承されてきたもので、鎌倉幕府が危険視して禁止したときでも秘密裏に行われたことから「かくれ念仏」とも呼ばれました。本堂内陣の舞台はかなり低く、外陣から見下ろす位置に造られていて、堂外からは踊躍念仏が隠れて見えないようになっています。また南無阿弥陀仏の発音も故意に変えられ、「モーダーナンマイトー」は南無阿弥陀仏の暗号のようなものといわれています。そうして念仏が守られてきたのです。お参りのあとはひとりずつお焼香をして、ひとつだけ願い事をしたあと、和尚さんからお守りのお札を授けていただけます。