法然院
(ほうねんいん)疎水に沿って南北にのびる「哲学の道」を歩き、洗心橋を渡ると杉や檜に覆われた小道の先に茅葺の山門が見えてきます。鹿ケ谷(ししがだに)にはかつて法然が弟子とともに念仏三昧の修行をした草庵があり、江戸時代、知恩院の住持であった萬無(ばんぶ)とその弟子、忍澂(にんちょう)によって中興されたのが法然院です。
山門
山号・寺号 | 善気山 法然院萬無教寺(浄土宗) |
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住所 | 京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町30番地 |
電話 | 075-771-2420 |
アクセス |
市バス 5,203,204系統「浄土寺」下車徒歩10分 32系統「南田町」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 6:00-16:00 伽藍内特別公開:4月1日-7日、11月18日-24日にあり。 |
拝観料 | 通常無料(特別公開期間は別途) |
公式サイト | http://www.honen-in.jp/ |
法然ゆかりの地に新風を吹かせた萬無(ばんぶ)と忍澂(にんちょう)
茅葺の美しい山門をくぐると、2つの盛り砂が参道を隔てて並んでいます。これは白砂壇(びゃくさだん)と呼ばれ、水を表しているそうです。そしてその間を通ることは、身を清めて浄域に入ることを意味します。砂壇の上に描かれた渦や葉のような文様は季節の移りによって変えられます。参拝した日は人影はほとんどなく、境内は静けさに包まれていました。
法然院は正式には「善気山(ぜんきさん)法然院萬無教寺(ほうねんいんばんぶきょうじ)」といいます。この寺号は、江戸時代、知恩院第38世の萬無(ばんぶ)和尚が、東山の善気山のふもと、鹿ヶ谷の地にあった草庵・法然院を中興したことをあらわしています。創建まもなく萬無は寂し、実際に伽藍を建て、不断念仏道場を開き、のちに官寺として発展させたのは、萬無を師とした忍澂(にんちょう)上人でした。法然院は忍澂上人の精神を受け継ぐお寺といわれています。
浄土宗の宗祖である法然は、誰でも念仏を称えれば往生できると説きましたが、現世の生き方はそれぞれに任せました。江戸時代当時の乱れた宗門の風潮に対し、忍澂は法然の教えに回帰しつつ、一歩進めて戒律を重んじ、宗門の規範を刷新した僧といわれています。また、忍澂は神仏を篤く信仰し、その加護を大切にした人でもありました。法然が雑行としたものを取り入れつつ、法然の教えの本質を広めた人であったようです。
忍澂は正保2年(1645)、江戸に生まれています。幼くして両親を亡くし、9歳で増上寺の塔頭、最勝院の直傳(じきでん)に預けられ、11歳で出家しました。15歳のとき、師の直傳は自らの示寂に際して、武蔵国浄国寺の住職であった萬無(ばんぶ)に忍澂を託しました。しかし萬無は忍澂に対し、増上寺に留まるよう諭したといわれています。
その後、忍澂は諸寺をわたり、23歳のとき「上人」号を賜るために入京することになります。しかしその旅費もなく途方に暮れた忍澂が毘沙門天に祈ったところ、たまたま江戸に来ていた萬無がそのことを聞いて祝い金を授けたそうです。こうして上洛することができた忍澂は、高雄の槙尾山西明寺を訪れます。山深い寺で、戒律が規範とされ、すべてが正しく整っているさまを見て、忍澂は大いに影響を受けたそうです。以降、忍澂は遁世して修行の旅に出ます。
江の島では弁才尊天が祀られる岩の洞窟で修行に打ち込み、山川を踏破してたどり着いた近江国木之本の浄信寺では、地蔵菩薩に祈りを捧げました。また琵琶湖の竹生島でも長い願文を書き、弁才尊天に祈る百日間の行を敢行しています。このとき忍澂が弁才尊天の神呪を念誦すると、湖東の山の上に生身の弁才尊天が現れたといいます。また石清水八幡宮で神道を学んだこともありました。忍澂が神仏に祈るたび、停滞していた物事が首尾よく進むという霊験があったそうです。
忍澂は再び京都に入り、西明寺で律を学ぼうとしましたが、浄土宗と律宗は目指すところが別だと断られ、その後、堺の阿弥陀寺に招かれます。延宝4年(1676)には、京都の知恩院の貫主に就任した萬無が阿弥陀寺を訪れて、忍澂と再会を果たしました。そして3年後に忍澂は知恩院に入り、萬無の侍者となります。知恩院第38世の萬無は当時の僧侶たちの堕落を憂えていたそうです。浄土宗は徳川家の篤い帰依を受けており、知恩院は香華院と呼ばれ地位も安泰でした。
萬無が宗門の現状を嘆くと、忍澂は鹿ヶ谷の法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを提案しました。萬無は忍澂の提案を受け、持戒清浄の道場を築いて宗風を新たにすることで宗祖法然の恩に報いることを決断したそうです。
鎌倉時代初期、法然が広めた専修念仏に対して南都北嶺から批判が集まり、興福寺が代表して朝廷に制裁を訴えましたが、当初朝廷は静観の立場をとっていました。そのころ法然は鹿ヶ谷の草庵で念仏三昧行を修していたと伝えられています。法然の弟子の安楽(あんらく)と住蓮(じゅうれん)が善導の六時礼賛に美しい節をつけたところ、急速に念仏行が民衆に広まりました。とくに安楽は美男で、美声の持ち主だったようです。
ところが、院の女房であった松虫・鈴虫が後鳥羽上皇の留守中に安楽・住蓮のもとで出家すると、それに激怒した上皇は専修念仏を停止し、安楽・住蓮は斬首、法然と門弟らが流罪となります。その後、鹿ヶ谷の草庵は荒廃しますが、仏像は残ったため鹿ヶ谷村で守られ、やがて知恩院住持の弟子たちにより草堂が建てられ、法然院として引き継がれていきました。萬無と忍澂は宗門の新たな出発点としてその地を選んだといわれています。
萬無はさっそく徳川4代将軍家綱に願い出て、善気山(ぜんきさん)の麓に二千坪の寺地を賜ります。幕府との間に入ったのは萬無の古くからの知り合いで大工頭の中井大和守正知でした。こうして知恩院から独立した一本山として、法然院は新たな歩みを刻むことになります。萬無は忍澂に命じて伽藍の造営を始め、延宝9年(1681)5月に完成、落慶法要が行われました。その翌月萬無は示寂しますが、さらに忍澂は師の遺志を継いで、六時礼賛、不断念仏、持戒修道などについてそれぞれの行法式を立て、道場における厳格な規則を定めました。その戒律には、法然が比叡山時代に相承した円頓菩薩戒が適用されたといわれています。
また元禄元年(1688)には手狭になった伽藍が大改築されました。伏見城の八百宮(やおのみや)御殿のひとつが下賜され、方丈として移築されました。翌年、忍澂は境内に弁才尊天と脇侍に吉祥天、摩利支天を祀り、寺の鎮守社としました。これはかつて忍澂が竹生島で弁才尊天に祈願し、さまざまな霊験を授かったことによるそうです。鎮守社は方丈の建つ敷地に建てられています。
元禄3年(1690)には、忍澂を写したといわれる等身の地蔵菩薩像が造立され、山の岩を削って安置されました。以降霊験が次々と現れたそうです。この地蔵菩薩は境内奥の本堂の向かいの岩屋の中に祀られています。また境内には蓮の葉の形をした水鉢が置かれていますが、これは泉が湧き出ていたところに忍澂が設置したものといわれ、弁才尊天の水鉢とよばれています。さらに元禄16年(1703)、法然院は桂昌院の支援により官寺となり寺領を賜りました。
また忍澂は、黄檗宗の独湛(どくたん)とも交流がありました。独湛は隠元(いんげん)に随って唐から来日し、宇治の萬福寺の住持にもなった禅僧ですが、念仏にも傾倒していました。独湛はあるとき『作福念仏図(さふくねんぶつず)』を版木に彫って、印刷して衆生に配りたいと思い、忍澂に相談すると、忍澂は快諾し、すぐに印刷して人々に配布したと伝えられています。『忍澂和尚行業記』を著した珂然(1669-1745)によれば、その数は21万8千に及んだといわれています。
忍澂が堺の阿弥陀寺を出たころ、北蔵経本を読み、誤字脱字や意味の通らないところが多いのを憂えて経典対校を誓ったことがありました。それから30年ほど経った宝永3年(1706)、忍澂は一切経の対校事業に取りかかります。増上寺の檀林へ書簡を送り、学識と修行を兼ね備えた10名ほどの僧侶を派遣してもらい、建仁寺から一切経を借りることになりました。ただし建仁寺では経典の持ち出しが禁じられていたため、またも中井正知に仲介を頼み、幕府からの願いとして1度に50箱ずつという条件で借覧が叶いました。萬無の人脈が忍澂にも引き継がれていたようです。その後、忍澂は4年をかけて一切経の対校を完成させています。
現在、本堂、方丈、方丈庭園は、春と秋にそれぞれ1週間ほど一般公開されます。法然院は椿の美しい寺としても知られています。また、寺域内の南の墓地には、谷崎潤一郎のお墓があります。