京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
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建仁寺

(けんにんじ)

建仁寺は、鎌倉時代の建仁2年(1202)に栄西(ようさい・えいさい)によって創建された京都で一番古い禅寺です。栄西は宋に2回渡り、日本に初めて臨済禅を伝えました。本坊には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(複製)が展示されています。また、法堂の天井には小泉淳作画伯による双龍図が描かれています。

京都で一番古い禅寺、建仁寺の双龍図 双龍図

INFORMATION
山号・寺号 東山(とうざん)慈照寺 (臨済宗建仁寺派)
住所 京都市東山区大和大路四条下ル小松町
電話 075-561-6363
アクセス 市バス 100,206系統
「東山安井」下車徒歩5分、祇園」下車徒歩10分、清水道」下車徒歩10分
46,201,203,207系統「南座前」下車徒歩7分
京阪電車 「祇園四条」下車、徒歩7分
阪急電車「河原町」下車、徒歩10分
拝観時間 3月-10月:10:00-16:30(17:00閉門)
11月-2月:10:00-16:00(16:30閉門)
12/28-12/31拝観休止
拝観料 一般 500円 中高生 300円
公式サイト https://www.kenninji.jp/
※↑2019/4確認時の情報です。

栄西が創建した京都で一番古い禅寺

京都祇園の花見小路通を四条から南へ行き、歌舞練場の前を通り過ぎると建仁寺の北門の前に出ます。花見小路は昔ながらの情緒豊かな花街で、お茶屋に出入りする舞妓さん、芸妓さんの姿を見かけることも珍しくありません。以前は夜の街のイメージでしたが、今では真っ昼間から観光地のようです。また歌舞練場の隣にはJRAのウインズがあり、週末の午後3時ごろは勝馬投票券を買いに行く人でごった返します。

建仁寺はそんな街中にありますが、一歩境内に足を踏み入れると雑踏の喧噪は遮断されます。地元の人は北門から建仁寺の境内を通り、勅使門(南門)の横の出入口から通り抜けたり、大和大路に面する総門から通り抜けたりして、日常の通り道として行き交います。一方で、建仁寺の南門から六道珍皇寺や、六波羅蜜寺も近く、さらに清水寺も遠くないので一帯を歩いて観光する人も多く見かけます。

そんな建仁寺の正門というべきは八坂通に面する勅使門(南門)で、そこからは放生池、三門、法堂(仏殿)、方丈が一直線上に並ぶ禅宗様式の伽藍配置を眺めることができます。

この勅使門は矢が刺さったあとが見られることから矢立門(やたちもん)・矢の根門などと呼ばれます。寺伝によれば、平重盛(たいらのしげもり・清盛の長男)の六波羅邸の門、または、平教盛(たいらののりもり・清盛の異母弟)の館の門を応仁の乱後に移したものといわれています。切妻造、銅板葺の四脚門で、その様式から鎌倉後期、または、室町初期の建物とみられています。松原通以南の一帯は六波羅とよばれ、平安末期に平家一門が邸宅を構えた場所であり、平家が滅びたあとは鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれました。

建仁寺は鎌倉時代の建仁2年(1202)に栄西によって創建されました。栄西は備中、加陽(かや)氏の出身で「ようさい」とも「えいさい」とも呼ばれます。吉備津神社の神職の家に生まれ、14歳で比叡山に上り天台教学と密教を修めますが、仏法よりも地位を求める僧が多い延暦寺に落胆して下山したといわれています。

平安末期から鎌倉初期にかけて時代は大きく転換しました。貴族は没落し、武門の政権が起こり、社会の仕組みが変わるなかで、わが国の仏教も転換期を迎え、鎌倉新仏教と呼ばれる新たな宗派が生まれました。法然も親鸞も栄西も道元も日蓮も比叡山という憧れの大学で学びましたが、満足できず下山して新しい教えを打ち立てました。

中国の天台山に上って仏教の根本を学びたい、日本の天台宗を立て直したい。そう願った栄西は仁安3年(1168)、28歳で入宋を果たします。平清盛が出家して厳島神社を造った頃のことです。ところが栄西が宋の現地で目の当たりにしたのは禅宗の隆盛でした。禅の教えは飛鳥時代から日本に伝わっていましたが、宗派としての体系はまだ出来ていませんでした。この様子に衝撃を受けた栄西は、自分に禅の素地が足りないと思ったのか、半年足らずで先に入宋していた重源(ちょうげん)とともに帰国しています。

宋から戻った栄西はそれだけでも有名になりました。また、天台密教の秘法に秀でていた栄西は、文治元年(1185)、勅により神泉苑で「請雨の法」を修して雨を降らせています。そしてこれにより後鳥羽上皇から「葉上(ようじょう)」の僧号を下賜され、栄西はのちに葉上流という台密の一派を立てています。こうして栄西は、天台密教の高僧として地位と名声を獲得していきます。

しかし栄西は日本仏教の立て直しを諦めたわけではなかったようで、文治3年(1187)に栄西は47歳で再度入宋しています。今度はインドで釈迦の遺跡をめぐり、仏教の正法を会得することを目的としたようです。ところが当時はモンゴルの勢力が強大で西域への道は閉ざされていました。

インド巡礼を断念した栄西は、再び天台山にのぼり、万年寺の虚庵懐敞(こあんえじょう)に臨済禅を学ぶことになります。足掛け5年、懐敞(えじょう)のもとで修行した栄西は臨済宗黄龍派の法を嗣いで、建久2年(1191)7月に帰国。8月には長崎平戸の冨春庵(ふしゅんあん)に迎えられ、日本で初めての禅規を行い多くの帰依者を集めました。その後栄西は九州各地で禅を広めています。

やがて入洛して禅宗を立てようとした栄西でしたが、延暦寺の僧や筥崎の僧、良弁から妨害され、建久5年(1194)には朝廷から達磨宗(禅宗)の弘法を禁止する宣旨が下されます。これに対し栄西は「伝教大師は達磨の禅を紹介している。禅宗が非なるものなら伝教大師も天台宗も否定されるはずだ」と抗弁しています。

延暦寺の弾圧から逃れるため、栄西はこのあと博多に移り、聖福寺を開いて禅の布教に努めます。同時に『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著して、旧仏教や朝廷からの疑問や論難に答え、禅宗を広める必要性を説きました。

正治元年(1199)、栄西は源頼朝の霊を弔うために鎌倉に向かいました。そのころ力をつけていた鎌倉の武士階級に禅を広めようとする意図があったともいわれますが、朝廷や延暦寺の弾圧を避けたとも考えられています。そんな栄西を庇護したのが鎌倉幕府第2代将軍の源頼家でした。栄西は、頼家の母である北条政子が建立した寿福寺に招かれて住持となり幕府の後ろ盾を得ました。

建仁2年(1202)、頼家の援助により、京都の五条以北、鴨川以東400m四方の土地を寄進され、建仁寺が創建されます。土御門天皇は寺号に建仁の元号を与えて勅願寺としました。ただし創建当初の建仁寺は、延暦寺の別院として公認され、台・密・禅の三宗兼学の道場としてスタートしています。当時、朝廷は延暦寺をはじめとする旧仏教勢力を重くみていました。

また栄西自身も、建永元年(1206)に朝廷から東大寺勧進職に任じられて東大寺修復に務め、承元3年(1209)には法勝寺九重塔の再興建築奉行に任じられ、4年をかけて完成させています。その功績が認められて紫衣を受け、権僧正の位を授かっています。このとき栄西は大師号を所望したといわれています。結構肩書にこだわった人のようですが、時代的にもまだまだ禅ひと筋というわけにはいかなかったのでしょう。建保3年(1215)、栄西は75歳で遷化しています。

その後の正嘉2年(1258)、東福寺開山の円爾(えんに)が建仁寺の第10世住持となり、火災などにより荒廃した伽藍を復旧に努めています。続いて文永2年(1265)、南宋出身の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が第11世住持となりました。蘭渓道隆は寛元4年(1246)に来日し、執権北条時頼の帰依を受け、鎌倉に建長寺を建てたあと、建仁寺に入って三宗兼学から禅専修の寺に改めています。

京都祇園の花見小路通
花見小路通
京都 建仁寺の北門
北門
京都 建仁寺の勅使門(矢立門)
勅使門(矢立門)
建仁寺の放生池に架かる反橋の先に三門が見える。
放生池に架かる反橋の先に三門が見える。
三門
三門
空門・無相門・無作門の三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼(ぼうけつろう)」と名付けられる。
京都 建仁寺の三門から見る法堂
三門から見る法堂
京都 建仁寺の法堂(仏殿兼用)
法堂(仏殿兼用)
「拈華堂(ねんげどう)」。正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られる。
京都 建仁寺の庫裡
庫裡
京都 建仁寺の陀羅尼の鐘
陀羅尼の鐘
京都 建仁寺境内の桑の碑
桑の碑
栄西は「喫茶養生記」上巻で茶の効用、下巻で桑の効能を詳述した。
京都 建仁寺境内の茶碑と八重紅しだれ桜
茶碑と八重紅しだれ桜
京都 建仁寺境内の道元の遺蹟
道元の遺蹟
道元は栄西の高弟・明全に師事していた。
京都 建仁寺の開山堂
開山堂
旧名・護国院。開山栄西禅師の入定塔(墓所)
京都 建仁寺の浴室
浴室
京都 建仁寺の明星殿
明星殿
道元ゆかりの神社

建仁寺の国宝、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」

方丈、小書院、大書院と中庭からなる本坊は広々として他の禅寺にない開放的な雰囲気があります。所どころに床几が置かれていて休んでいる人や、小書院の座敷に座って「潮音庭」を眺める人もいます。写真撮影も自由でずいぶん寛容なお寺だと思いましたが、これは現在のデジタル技術を駆使したレプリカで国宝などの文化財を展示していることによるのでしょう。それでも有り難いです。

建仁寺の国宝といえば、俵屋宗達の晩年の最高傑作と評される二曲一双の「風神雷神図屏風」です(現物は京都国立博物館に寄託)。屏風全体に金箔が押され、右双に風神、左双に雷神がともに豊かな表情で躍動感に満ちて描かれています。そして何より、風神、雷神とはどんなものかと問われればこの絵が浮かぶほど、宗達の風神雷神がキャラクターとして人々に浸透していることに感心します。

ちなみにこの屏風絵には宗達の署名も印章もありませんが、この個性で描けるのは宗達以外にいないといわれています。またこの屏風は最初から建仁寺に伝えられていたわけではなく、鳴滝の近くの妙光寺に所蔵されていたものを、文政3年(1829)に、住寺であった全室滋保が建仁寺に移る際、持ち込んだものといわれています。仁和寺門前に住んでいた尾形光琳は、のちにこれを忠実に模写していますが、鳴滝には光琳の弟の尾形乾山が開いた泉谷窯があり、兄弟で数々の絵付けを合作していたそうです。仁和寺と泉谷を行き来していた光琳は、すでに妙光寺にあったときから「風神雷神図屏風」を目にしていたとも考えられています。

ところで、宗達が活躍したのは江戸時代初期ですが、鎌倉期の栄西にも風神にまつわる話があります。鎌倉幕府の庇護で京都にやってきた栄西を、当初、都の人々はよく思っていなかったようなのです。以下は無住(むじゅう)の『沙石集』に出ている説話です(大意)。無住は尾張の長母寺(ちょうぼじ)の僧ですが、東福寺にもいたことがあります。

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建仁寺創建の最中に京の都にたまたま大風が吹いて被害がでたとき、民衆は異国風の大袈裟や大衣を着た栄西や禅僧たちが風を呼んだと噂した。それ以前から大きな袖のある衣服は風を呼ぶものと信じられていた。土御門天皇はこの噂を受けて栄西を追放しようとしたが、栄西は、風は天が起こすもので自分が風神ではないこと、もしその風を栄西が起こしたのなら栄西は人以上の存在で、天は栄西を見限ることはないと天皇に説明した。天皇はその抗弁の明晰さに大いに納得して勅許を出したという。
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時代が下った天文21年(1552)、建仁寺は大火で伽藍の多くを焼失しています。その再興に尽力したのが安芸出身の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)です。恵瓊は安国寺や東福寺、南禅寺の住持にもなったことがある禅僧で、安芸の安国寺の方丈を建仁寺に移して再建したといわれています。恵瓊は毛利氏のもとで外交役を勤め、後に秀吉の近臣となり、関ヶ原の合戦では西軍につき、石田三成らとともに六条河原で斬首されています。恵瓊の墓が方丈北庭の納骨堂の隣にあります。

禅寺の天井には龍図が描かれることが多く、これは龍神が水を司ることから、龍は火災から堂宇を護っているといわれています。建仁寺の法堂の天井にも龍図が描かれていて、現在のものは小泉淳作画伯による双龍図です。2002年に創建800年を記念して制作されました。また、海北友松(かいほうゆうしょう)によって描かれた「雲龍図」「花鳥図」などの襖絵(複製)が方丈に公開されています。

本坊中庭の茶席「東陽坊」は、天正15年(1587)に秀吉が催した北野大茶会で副席として使われたものと伝えられています。利休の門弟で、この茶席を好んだ真如堂の東陽坊長盛にちなんでこの名が付けられたそうです。

お茶といえば、栄西は宋から持ち帰った茶の実の栽培を奨励し、喫茶の法を普及しています。栄西が筑前の背振山(せぶりさん)に植えた茶は「岩上茶」の起こりといわれ、また、高山寺の明恵(みょうえ)に贈った茶は「栂尾茶(とがのおちゃ)」として現在も高山寺境内の茶園で栽培されています。

禅には茶に関する儀式が多く、特に坐禅を行う際に眠気を払しょくするための茶礼が重要とされました。また栄西は日本最古の茶書である『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著して茶と桑の薬効を説いています。源実朝が二日酔いになったとき、茶とともにこの書が献上されたと伝えられています(『吾妻鏡』)。

京都 建仁寺の風神雷神図屏風(複製)
風神雷神図屏風(複製)
京都 建仁寺の方丈
方丈
京都 建仁寺方丈前の枯山水庭園・大雄苑(だいおうえん)
大雄苑(だいおうえん)
明治の小川治兵衛による作庭。白砂と緑苔、巨岩が配された伸びやかな枯山水庭園。
京都 建仁寺の庭園・潮音庭(ちょうおんてい)
潮音庭(ちょうおんてい)
中央の三尊石から三連の庭と呼ばれる。
京都 建仁寺の庭・○△□乃庭
○△□乃庭
京都 建仁寺の法堂の双龍図(小泉淳作筆)
法堂の双龍図 (小泉淳作筆)
京都 建仁寺の方丈襖絵 雲龍図(海北友松筆)
方丈襖絵 雲龍図(海北友松筆)
京都 建仁寺境内にある日本画家・田村月樵が愛用した大硯
日本画家・田村月樵が愛用した大硯
京都 建仁寺境内にある茶室・東陽坊(とうようぼう)
東陽坊(とうようぼう)
建仁寺境内にある茶室・東陽坊の中
東陽坊の中
関連メモ&周辺

両足院
(りょうそくいん)

建仁寺塔頭、両足院(りょうそくいん) 建仁寺塔頭、両足院の庭園 建仁寺塔頭、両足院の庭園
建仁寺の塔頭寺院である両足院は、龍山徳見(りゅうざんとっけん)を開山とする寺で、もとは知足院と呼ばれていたが、室町時代の再建にあたり両足院と改められた。龍山徳見は22歳で入元し、45年間も元で修行。帰国後、建仁寺の第35世の住持となった。
なお、龍山徳見の帰国にあたり追随して日本にやってきた林浄因(りんじょういん)は日本で初めて饅頭を作った人で、両足院は「饅頭始祖の寺」といわれている(現在は東京の塩瀬総本家として受け継がれる)。
池泉回遊式の書院前庭には半夏生(はんげしょう)が群生し、初夏に美しく咲き乱れることから「半夏生の寺」とも呼ばれる。方丈前庭には亀島が、書院前庭には鶴が羽を広げた形の池が配され、奥に築山を望む美しい庭園がある。坐禅会の参加も可。 詳しくは公式サイトへ。

禅居庵
摩利支尊天堂

建仁寺塔頭、禅居庵 建仁寺塔頭、禅居庵の摩利支尊天堂 猪
禅居庵(ぜんきょあん)は建仁寺第23世の清拙正澄(せいせつしょうちょう)により開かれた建仁寺の塔頭。なお禅居庵は非公開。境内仏堂として祀られる摩利支尊天堂(まりしそんてんどう)は自由に拝観できる。摩利支天とはインド由来の仏教の守護神。陽炎(かげろう)が神格化したもので、厄難除けや開運のご利益がある。境内には神の使いである狛猪が数多く奉納されており、特に猪年生まれの人は大きなご利益を受けられるという。詳しくは公式サイトへ。

主な参考資料(著者敬称略):

『新版古寺巡礼 京都23 建仁寺』淡交社 /『京都・宗祖の旅 栄西 [臨済宗]』高野澄 淡交社 /『禅の寺 臨済宗・黄檗宗 十五本山と開山禅師』阿部理恵 禅文化研究所 /『読みなおす日本史 禅宗の歴史』今枝愛真 吉川弘文館 /

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