京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。

清水寺

(きよみずでら)

「清水の舞台」で知られる清水寺は京都一の観光寺院といってよいでしょう。今も昔も参拝する人々は年中尽きることがありません。奈良時代末期の僧、延鎮(えんちん)と坂上田村麻呂によって開かれた清水寺は、清らかな水の霊験や、千手観音の慈悲を求める人々によって1200年以上親しまれてきた庶民信仰のお寺です。

京都 清水寺の本堂・清水の舞台 本堂・清水の舞台(写真は舞台工事・檜皮葺替え工事以前のもの)

INFORMATION
山号・寺号 音羽山 清水寺(北法相宗)
住所 京都市東山区清水1丁目294
電話 075-551-1234
アクセス 市バス 206,100系統「五条坂」下車徒歩10分
207系統「清水道」下車徒歩10分
京阪バス 83,85,87,88系統「清水道」「五条坂」下車 徒歩10分
拝観時間 6:00-18:00
季節・特別拝観等により閉門時間が異なる
拝観料 大人(高校生以上):400円 小中学生:200円
障がい者の方:申請で無料
公式サイト https://www.kiyomizudera.or.jp/
※↑2019/4確認時の情報です。

清水寺と坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。そしてアテルイ、モレのこと

京都で人気のあるお寺といえば、今も昔も清水寺です。清水寺へは、八坂神社の南門から高台寺を経由して、二寧坂から産寧坂を上ってもいいし、東山通りから清水道に入るか、五条坂をたどっても行けます。坂の途中の門前町にはいくつものお店が軒を並べ、いつもお祭りのような賑わいです。

音羽山の中腹に開かれた清水寺の境内にはたくさんの伽藍や旧跡が点在していて、それぞれに興味深い由緒や伝承があり、ちょっとしたテーマパークのようです。

清水寺の開創は宝亀9年(778)、奈良時代の末期です。桓武天皇が即位するのはこの3年後の天応元年(781)で、そのまた3年後の延暦3年(784)に長岡京に遷都され、さらに延暦13年(794)に平安京へと遷されました。つまり清水寺は、平安京に都が遷る前から1200年以上にわたって京都を見つめ続けてきたのです。

清水寺を開いたのは奈良の子島寺の僧、延鎮(えんちん)。修行僧の頃は賢心(けんしん)と名乗っていました。ある日、賢心は夢のなかで「北へ向かい清らかな水の流れる地を求めなさい」と告げられ、音羽山の滝のほとりに導かれます。そこに行叡(ぎょうえい)と名乗る居士(こじ)が現われ、「私はこの地に200年住んで修行を続け、そなたを待っていた。あとを任せるのでここに千手観音を祀りなさい」と眼前の霊木を指して東国へと去っていきました。賢心がその木に観音様を彫り、草庵を建てて祀ったのが清水寺の始まりといわれています。

その2年後のこと。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は妻の三善高子(みよしのたかこ)の病のために、鹿肉を食べさせようとして山で狩りをしていました。そこで聖なる水を見つけ、水源を辿っていくと滝のほとりで修行する賢心に出会います。賢心は「殺生はおやめなさい。その代り観音さまに祈りなさい」と田村麻呂に諭したといいます。田村麻呂はこのことを妻に話すと、妻も感銘を受け、自分たちの土地を寄進して本堂を建て、十一面千手観音を造って奉納しました。

清水寺の創建について、以上のような話が『清水寺縁起』のほか『今昔物語集』や『扶桑略記』などに伝えられています。坂上田村麻呂は蝦夷(えみし)征討でもなじみ深い武官です。修行僧がまず山の中に草庵を立て、のちに田村麻呂が土地を寄進してお寺ができたという話になっています。開祖に迎えられたのは賢心で、のちに延鎮と名乗ります。清水寺に初めて本堂ができたころはまだ田村麻呂の小さな私寺であったようです。

坂上氏は後漢の霊帝の子孫である阿智使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)の宗家筋を称していたといいます。一族は大和の高市郡に拠点を置き、飛鳥時代からそのすぐれた軍事力を買われ、朝廷に重用されていました。田村麻呂の祖父、犬養(いぬかい)はその武才を讃えられて聖武天皇から寵愛され、父の苅田麻呂(かりたまろ)も藤原仲麻呂の乱で功績を残し、武人としてその名を誇っていました。苅田麻呂は晩年に陸奥国の鎮守将軍も務めています。

田村麻呂が活躍した平安初期、桓武天皇が力を注いだのは征夷と造都の2大事業でした。蝦夷(えみし)とは、古くからヤマト王権に属さず関東以北に暮らしていた人々のことをいうそうです。またヤマト王権が畿内に進出する前からの先住民であったとも、アイヌと同じ民族とも考えられています。『日本書紀』景行紀には、武内宿禰(たけうちのすくね)が東北を視察したとき「東の夷の中に日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是すべて蝦夷という」と報告したとされています。東北北部は高度な縄文文化が知られていますが、弥生時代前期にはすでに稲作が伝播していたといわれ、独自の文化をもち、農業や遊猟、沿岸の漁労に携わる人々が、互いに干渉せず、支配国家をもつこともなく暮らしていたらしいのです。

ヤマト王権の勢力拡大にしたがって東北開拓が進められ、以降、蝦夷と呼ばれた人々の抵抗と服属の歴史がくり返されました。蝦夷の中には姓(カバネ)や位階を求めて自ら帰順する者もあり、朝貢して餐応を受ける者もありました。服属して俘囚(ふしゅう)や夷俘(えふ)と呼ばれた人たちは、坂東以西の各地に居住地を移されたりもしました。政府は服属した者たちを集めて俘軍をつくり、反乱する蝦夷と戦わせることもあったようです。一方、国家から管理された農耕を含む定住の暮らしを嫌って、山に隠れた蝦夷もあったと考えられています。

光仁朝の時代以降、蝦夷征討が本格的になり、蝦夷も激しく抵抗して長い戦乱状態がつづきます。延暦8年(798)、紀古佐美(きのこさみ)を征東大将軍とする4万とも5万ともいわれる国軍が蝦夷征討に向かいますが、アテルイ(阿弖流為)率いる蝦夷軍の戦略に嵌められて大敗を喫しています。『続日本紀』延暦8年6月3日条には「比至賊帥夷阿弖流為之居」とあり、この大戦で初めて蝦夷の族長としてアテルイの存在が知られることになります。

延暦13年(794)、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもと、副将軍の1人として坂上田村麻呂が初めて蝦夷征討に加わり、ひとまず征夷を果たします。そして延暦20年(801年)、今度は田村麻呂が征夷大将軍として陸奥国に遠征。蝦夷を平定し、翌年、アテルイたちが拠点とした所に胆沢城を築くと、蝦夷族長アテルイと武将のモレが500人余りを率いて投降したといわれています。

さらにその翌年、田村麻呂はアテルイとモレを京都に連れ帰り、戦わずして投降した彼らの故郷への差し還しを朝廷に請願したと考えられています。けれども公卿たちは朝議で彼らを「野心獣心、反覆定まりなし」(『日本紀略』)として河内(枚方)で処刑してしまうのです。

のちに東北地方では、田村麻呂は軍神として深く崇敬されてきました。それは開拓のために東北に移った人々の子孫のみならず、征討され屈服させられたはずの地域の人々にまでおよぶのだといいます。『田村麻呂伝記』によれば、田村麻呂は身長約180cm、胸の厚さ36cmの大男で、赤ら顔、眼は蒼鷹のように鋭く、黄金のあごひげを蓄えていたと書かれています。怒って睨みを利かすと猛獣もたちまち倒れてしまうが、笑って眉をゆるめると幼子もすぐに懐くといわれ、豪胆そうな風貌や、懐の深そうな人物像が浮かび上がってきます。

けれども、官人である田村麻呂には都に暮らす公卿たちの意思決定を覆す力はなかったようです。その後、再び陸奥国の政情は不安定になり、弘仁2年(811)の文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)による蝦夷征討戦争へとつながっていきます。

清水寺の本尊、十一面千手観音(秘仏)の脇侍は、毘沙門天と勝軍地蔵菩薩(秘仏)です。これらは田村麻呂のために、延鎮(えんちん)がつくったものといわれ、戦勝祈願が込められています。勝つには勝っても、田村麻呂にとって征夷は苦い経験だったかもしれません。

近年になって、「阿弖流爲(アテルイ)、母禮(モレ)の碑」が境内に建てられました。清水寺では年に一度、アテルイとモレの法要が行われ、その日は必ず雨が降るといいます。水は観音さまの化身といわれ、その雨はアテルイとモレの涙ともいわれています。記念碑には「北天の雄」と小さく添えられています。

京都 清水寺門前はいつもごった返している
門前町
京都 清水寺の仁王門と三重塔
仁王門と三重塔
仁王門は室町時代に再建。赤門と呼ばれる。像高365cmの阿形、吽形の仁王像が安置される。
京都 清水寺の西門
西門
京都 清水寺の三重塔
三重塔(寛永9年)
高さ約30m、日本最大級の三重塔。
京都 清水寺の経堂
経堂
京都 清水寺の開山堂(田村堂)
開山堂(田村堂)
京都 清水寺の朝倉堂(あさくらどう)
朝倉堂
京都 清水寺の轟門(とどろきもん)
轟門
京都 清水寺の本堂
本堂
京都 清水寺、早朝の人のいない本堂とふれあい観音
早朝、人のいない本堂とふれあい観音
京都 清水寺の伝・福禄寿神
伝・福禄寿神
行叡居士の姿を写したものと伝えられる。のちに福禄寿として信仰を集めた。
京都 清水寺の本尊懸仏(ほんぞんかけぼとけ)
本尊懸仏(ほんぞんかけぼとけ)
秘仏である本尊千手観音を写した懸仏が本堂外陣の欄間に吊るされている。御正体(みしょうたい)ともいうらしいので有難く拝ませてもらった。直径約2m、総重量は400kg。
京都 清水寺の脇侍「将軍地蔵の懸仏(かけぼとけ)」
脇侍の将軍地蔵の懸仏
京都 清水寺の脇侍「毘沙門天の懸仏(かけぼとけ)」
脇侍の毘沙門天の懸仏
京都 清水寺境内のアテルイ、モレの碑
アテルイ、モレの碑

昔の文学で語られる清水寺に参詣する人々

西寺造営の長官を兼ねていた坂上田村麻呂は、延暦24年(805)、桓武天皇の御願寺として朝廷から寺領を賜り、清水寺の本格的な伽藍造営を始めます。また弘仁元年(810)には嵯峨天皇から「北観音寺」の寺号が贈られ、鎮護国家の道場に指定されました。桓武天皇は平安京に私寺を建立することを厳しく取り締まっていましたが、田村麻呂の数々の功績が認められて、天皇の御願寺とすることで建立を許されたのでしょう。ほかにも理由がありそうです。

『今昔物語集』巻第11第32話によれば、延鎮と坂上田村麻呂が共同で清水寺の堂宇を建て、完成する前から清水寺の霊験のうわさは瞬く間にひろまったとされています。嵯峨天皇から賜った「北観音寺」の寺号よりも、「清水寺」の名で一般に知られるようになりました。境内を流れる聖なる水「金色水」に霊験を感じて有り難がった人々が多かったと考えられています。

境内の「音羽の滝」のお参りは、頭上の「滝ノ宮」を通って流れ出る水を3本の石の筧(かけい)で落下させ、それを柄杓で受けていただくという慣わしになっています。開祖の賢心が修行していた滝がこの「音羽の滝」で、滝ノ宮の本尊は不動明王です。観光シーズンには長蛇の列ができて、なかなか順番が回ってきませんが、ここはご利益を授かるやり過ごせないポイントなのでしょう。戦国時代につくられたといわれる『清水寺参詣曼荼羅』にも同じ仕組みの滝が描かれていて、古くから滝のスタイルは変わっていません。絵図には滝に打たれている人も描かれています。

開祖の延鎮が修行していた奈良の子島寺は真言宗の寺院でしたが、清水寺は、平安時代に奈良の興福寺が布教の道場として本末関係を結んだといわれています。以来、清水寺は昭和40年(1965)に北法相宗本山として独立するまで興福寺の末寺でした。平安時代の当初、朝廷は南都系の寺院勢力を敬遠していましたが、難解な教義よりも、利他救済、現世利益を説く観音信仰が大衆の心を掴んで清水寺は隆盛します。

ところが京都で南都の最前線に立たされた清水寺は、延暦寺から焼き討ちを受けたことも度々あり、清水寺の歴史は火災と再建の歴史でもあります。最後に大火事に見舞われたのは寛永6年(1629)で、このとき伽藍のほぼすべてを焼失しています。現在の本堂は徳川家光の寄進により寛永10年(1633)に再建されたもので、そのほかの多くの伽藍も同時期に再建されたもの。なので、古い時代の遺構や遺物はほとんど残っていないとのことですが、往時のようすは文芸や絵画などに数多く描かれていて、当時を偲ぶことができます。

古くは紫式部の『源氏物語(葵の巻)』や清少納言の『枕草子』に清水寺が登場します。特に『枕草子』には清水寺に関する記述が多く、清少納言は「さわがしきもの」として毎月18日の清水寺の縁日を挙げているほか、「正月に寺にこもりたりたるは」の段では、正月は人で賑わい過ぎてお参りどころではないと言っています。また同じ段には清水寺に参籠する人々の様子がこと細かに描写されていて、そこには思い詰めた様子で祈る高貴な男性や、宿坊に泊まる男、女、子どもたち、官職の昇進を祈願する者、安産祈願をする者、年配の女房、お世話係の小坊主たちや、諸国を巡ってやってきた修行僧など大勢の姿があります。

また女性たちを意識してまわりをうろつく男性陣や、おしゃれなイケメンもいて、見知らぬ人なら「誰かしら?」となり、見たことのある男性なら「ふうん、そうなのね」と思ったり。その上で清少納言は、こういった普段と違う特別な場所に行くときは、いつもの使用人とではなく、同じくらいの身分でいろいろと話せる人たちと行きたいものだわ、なんて綴っています(『枕草子』正月に寺にこもりたるはの段)。清水寺には切実な願いを祈りに来る人はもちろん、ウキウキ修学旅行気分の若者たちもいたようです。

さらに『宇治拾遺物語』には、双六で大負けした侍が渡すものがなく、清水寺の二千度参詣の証文を勝者の侍に渡したところ、もらった侍はよい妻を娶り、出世したという説話が収められています。また室町時代の御伽草子の『ものくさ太郎』は、怠け者の主人公が信濃から京都に来て「清水寺で女を探せ」と教えられ、11月18日の縁日に大門に立ち、何千何万の女性に無視された末に運命の女性と出会い、執念で射止めたという物語です。今、縁結びというと境内の地主神社が人気ですが、とにかく清水寺は古くから大衆の集まる寺で、男女の出会いの場でもあったようです。

清水の舞台に関する説話もたくさんあります。鎌倉時代に成立した『古今著聞集』の巻第11蹴鞠 410話には、蹴鞠をしながら舞台を往復した藤原成通(ふじわらのなりみち)の話が収録されています。また『今昔物語集』巻第19「検非違使忠明於清水値敵存命語 第40」では、忠明という検非違使が若いころに京童と喧嘩をして清水の本堂に逃げたが、追いかけられたので舞台から鳥のように飛び降りた、と語られます。一方、同巻第19第41話では、ある母親が過って赤ん坊をお堂から谷に落としてしまったけれど、観音の思し召しにより落ち葉の上で助かったと語られています。さらに南北朝時代に成立したといわれる『義経記』によれば、牛若丸と弁慶が対決するのは五条大橋ではなく、清水寺の舞台となっています。

本堂から大きくせり出した舞台は、本来、本尊の千手観音に舞踊などを奉納する場とされますが、そこから「飛び落ちる」人もかなりいたようです。江戸時代には舞台からの飛び落ちが流行ったらしく、観音に祈り、無事に着地できれば願いが叶い、もし失敗しても、観音の慈悲に抱かれて往生できるという信仰からの行動だといわれています。なお、舞台から飛んだ人の生存率は高かったということです。でももちろん絶対にマネをしてはいけません。

ところで清水寺の本尊といえば十一面千手観音立像で、33年に一度の御開帳のときにしか拝観することができません。なので普段はお前立を拝むことになります。このご本尊は両手をあげて頭上で化仏(けぶつ)を戴く独特のスタイルで「清水型観音」と呼ばれています。次回の御開帳は2033年の予定ですが、特別の御開帳の例もあるので、もしかしたら2033年まで待たなくてもご本尊を拝観できるかも。

平安時代にはすでに清水寺参詣のために五条橋(今の松原橋付近)が架けられたといわれています。人々は鴨川を渡り、冥土の境界といわれる六原を通って清水寺に参詣したようです。すぐそこは鳥辺野とよばれる葬送地なので、人々はこの世とあの世の幸せを清水寺の観音さまに祈ったのでしょうか。加えて観光で参詣した人々もあったでしょう。『清水寺参詣曼荼羅』には、境内の茶店で憩う人々も描かれています。お参りと娯楽を兼ねた人たちの今と変わらない賑わいが想像できます。

京都 清水寺、奥の院側から観る「清水の舞台」
舞台と市内を望む
京都 清水寺、早朝の人気のない「音羽の滝」
早朝の音羽の滝
京都 清水寺、昼間の混雑する音羽の滝
昼間の音羽の滝
京都 清水寺の「子安塔」
子安塔
京都 清水寺の本堂を下から見上げる
本堂を見上げる
京都 清水寺の釈迦堂
釈迦堂
京都 清水寺の阿弥陀堂
阿弥陀堂
文治4年(1188)法然が専修念仏の説戒に清水寺を訪れたといわれる。
京都 清水寺の奥の院
奥の院
本堂と同様に本尊の千手観音、脇侍の地蔵菩薩、毘沙門天、二十八部衆、風神雷神を祀る。千手観音は清水型と異なる三面千手観音坐像で非常に珍しいスタイル(秘仏)。
京都 清水寺の地蔵堂
地蔵堂
京都 清水寺の千体石仏群
千体石仏群
京都 清水寺の鉄の錫杖(しゃくじょう)と高下駄
鉄の錫杖(しゃくじょう)と高下駄
重さ90kg以上の大錫杖と14kgの小錫杖、12kgの高下駄。明治に奈良の吉野で修行した修験者から奉納されたもので「弁慶の錫杖と高下駄」とも呼ばれている。多くの参拝者が力試しをする。
京都 清水寺の濡れ手観音
濡れ手観音
京都 清水寺の出世大黒天(室町時代)
出世大黒天(室町時代)
関連メモ&周辺

清水の舞台

京都 清水寺の本堂 「清水の舞台から飛び降りる」というお馴染みの「清水の舞台」は懸造りになっている
思い切った決断をするとき、「清水の舞台から飛び降りる」というお馴染みの清水の舞台は本堂前にある。総檜張りで、観音様に舞楽を奉納するためのまさに「ひのき舞台」。寄棟造り、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根は天に反り返る曲線が美しい。
現在の本堂および舞台は、寛永10年(1633)、徳川家光の寄進により再建されたもの。16世紀に描かれた『清水寺参詣曼荼羅』に見る舞台も現在とほとんど同じで、平安時代の宮殿建築が踏襲されている。
高台から崖にせり出すように、正面約36m、側面約30m、高さ約13mの大舞台を構える。これは「懸造り」といわれる工法で、崖や斜面など高低差のある地盤の上に水平を保って建てられ、さらに数々の柱は釘をひとつも使わずに組み上げられている。下から見上げても、ため息が出るほど壮大な建築物。
※清水寺は平成20年(2008)からの平成大修理により、順次、各堂宇に修復工事が行われています。

秋のライトアップ

清水寺の紅葉ライトアップ 清水の舞台・紅葉ライトアップ
秋の紅葉の時期にはライトアップされる。本堂から眼下に広がる錦雲渓(きんうんけい)の紅葉がとても美しい。でも混雑する。

地主神社
(じしゅじんじゃ)

京都 清水寺の鎮守社・地主神社の鳥居 地主神社 京都 清水寺の鎮守社・地主神社は縁結びの神様 縁結びの神様 京都 清水寺の鎮守社・地主神社の恋占いの石 恋占いの石 京都 清水寺の鎮守社・地主神社の恋占いの石祓戸大神(厄除大国主) 祓戸大神(厄除大国主)

本堂の北側に縁結びの神様で知られる地主(じしゅ)神社がある。社伝によれば、創建は日本の建国より前という。周囲が湖だった太古の時代に、地主神社のあたりは陸地だったらしく、不老長寿の霊山「蓬莱山」 として古くから信仰をあつめていた。境内に祀られる「恋占いの石」は縄文時代の遺物であると確認されている。まさに古代の自然信仰の聖地といえそう。清水寺の鎮守社で明治の廃仏毀釈以前は地主権現と呼ばれていた。

京都 清水寺の鎮守社・地主神社の地主桜(御車返しの桜) 地主桜

境内には、御車返しの桜として有名な地主桜の木がある。八重と一重の花が同時に咲く珍しい品種。弘仁2年(811)、嵯峨天皇が行幸され、帰途につきかけたところ、その美しさゆえに牛車を何度も引き返して愛でたことからそう呼ばれている。なお、常照皇寺にも同様に呼ばれる桜がある。

成就院
じょうじゅいん

京都 清水寺の「成就院(じょうじゅいん)」
成就院は、応仁の乱で焼失した清水寺の再興に努めた願阿弥(がんあみ)上人の住房として造られ、のちに清水寺本坊塔頭となった。願阿弥は勧進という方法をとって復興資金を調達。以来、清水寺では本願職という役職についた勧進僧が伽藍再建や財政の運営を担当した。現在の建物は、寛永16年(1639)、後水尾天皇の中宮であった東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)の寄進によって再建されたもの。主に春と秋に期間限定で庭園や襖絵などが特別公開される。

馬駐
(うまとどめ)

京都 清水寺の馬駐(うまとどめ)
貴族や武士が参拝時に馬を繋いだところ。馬の手綱を繋ぎ止める鉄製の金具が柱には付けられているがなぜか右から三本目の柱の右面上方と四本目の右面下方だけが他とは違って垂直に垂れ下がっている。大工さんの遊び心だったのかも、などといわれている。

「胎内めぐり」
(たいないめぐり)

京都 清水寺、隋求堂(ずいぐどう)の胎内めぐり
鐘楼と三重塔を見ながら階段を上がると左に隋求堂(ずいぐどう)がある。こちらでは「胎内めぐり」ができる。隋求堂の地下を本尊の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)の胎内に見立て、暗闇の中を壁に張られた数珠をたよりに巡り、梵字が書かれた隋求石を回してお参りする。

青龍会
(せいりゅうえ)

京都 清水寺の「青龍会(せいりゅうえ)」
清水門前会と清水寺の僧侶により2000年から春と秋に行われ、門前は大いに賑わう。清水寺は陰陽道で「青龍」の地に位置し、青龍は観音の化身とも考えられている(どちらも水を司る)。
青龍会は、青龍が音羽の滝の水を飲みにやってくる故事と奥の院南脇堂に祀られる夜叉神(やしゃじん)への信仰が結びついているという。荘厳な装束に身を包んだ一行と青龍が、奥の院から地主神社、音羽の瀧、経堂、三重塔、西門、轟門、本堂へと境内を回ったあと門前町を練り歩き、人々の安寧と招福を祈願する。

永久の強訴
えいきゅうのごうそ

京都 清水寺の鐘楼 鐘楼
平安時代中期、比叡山延暦寺は、京都の鴨川以東に広大な領地を有する祇園社を支配下に置き、また、興福寺は大和国の大部分の荘園を領有していたため、2つの強大な寺社勢力は僧兵を抱え、しばしば武力を用いて争っていた。
興福寺の末寺であった清水寺も常に南都の最前線に立たされていた。永久元年(1113)、朝廷は清水寺の別当になぜか延暦寺で出家した僧を任命した。興福寺の数千人の僧や衆人はこれを不満として白河上皇へ強訴、撤回を求めた。さらにその時入洛した興福寺の衆徒が、当時延暦寺の支配下にあった祇園社の神人に暴行を働いてしまい、その報復として、延暦寺の僧が清水寺の堂舎を壊し、朝廷に興福寺への懲罰を請願した。
これに対し、興福寺の衆徒も入京をくわだてたため、朝廷は衆徒を煽動した者や清水寺を破損させた山徒を追放してなんとか事態を収拾した。しかしこれがもとで、永万元年(1165)には比叡山僧兵が清水寺に来襲、本堂以下ほとんどの伽藍を焼き討ちしてしまった。これが「永久の強訴」。さらに治承3年(1179)にも、以前から領地をめぐって対立していた祇園社の神人らが清水寺を襲撃し、焼き討ちしている。

主な参考資料(著者敬称略):

『清水寺史 第4巻 図録』/『清水寺まんだら』森清範 春秋社 /『新版古寺巡礼 京都26 清水寺』淡交社 /『古代東北の兵乱』新野直吉 吉川弘文館 /『田村麻呂と阿弖流為 古代国家と東北』新野直吉 吉川弘文館 /『清水寺の謎』加藤眞吾 祥伝社黄金文庫 /『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』森浩一 学生社 /『枕草子』(三巻本系統)池田亀鑑・校訂 ワイド版岩波文庫/『新編日本古典文学全集36 今昔物語集2』馬淵和夫・国東文麿・稲垣泰一/校注・訳 小学館 / 『古今著門集 下』西尾光一・小林保治/校注 新潮社 /『国史大系第5巻 日本紀略』延暦13年6月 国会図書館デジタルコレクション /

TOP