京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
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知恩院

(ちおんいん)

華頂山の麓に建つ知恩院は浄土宗の総本山です。もとは浄土宗の宗祖、法然の「大谷の禅房(吉水御坊)」があったところです。江戸時代に徳川家康が将軍家の菩提所としたことで壮大な伽藍の建ち並ぶ大寺院へと変容しました。威容を誇る超豪壮な三門が有名です。

徳川将軍家ゆかりの京都 知恩院・三門 三門

INFORMATION
山号・寺号 華頂山知恩教院大谷寺 通称:知恩院(浄土宗)
住所 京都市東山区林下町400
電話 075-531-2111
アクセス 市バス 12,31,46,201,202,203,206系統「知恩院前」下車すぐ
京阪電車「祇園四条」から徒歩約10分
阪急電車「河原町」から徒歩約15分
拝観時間 方丈庭園9:00-15:50/友禅苑9:00-16:00
拝観料 方丈庭園:大人400円 小中学生200円 団体30名以上360円
友禅苑:大人 300円 小中学生150円 団体30名以上270円
共通券:大人500円 小中学生250円 団体30名以上450円
公式サイト https://www.chion-in.or.jp/
※↑2019/4確認時の情報です。

浄土宗の宗祖、法然と知恩院

八坂神社の北に接し、華頂山の麓に建つ知恩院は、全国に7000余りの末寺と檀信徒約500万人を擁する浄土宗の総本山です。度肝を抜かれるような重厚・荘厳な三門は高さ25m、幅50m、掲げられた「華頂山」の扁額は畳にして2畳分という圧倒的なスケールを誇ります。また敷地73,000坪といわれる広大な境内は上・中・下段に区画が別れ、それぞれに多くの伽藍が建ち並びます。

日本一とも、世界一ともいわれる三門をくぐると急な石段の男坂と、緩やかな石段の女坂があります。石段を上がると広々とした平坦な境内が広がり、信徒3000人を一堂に集めることのできる御影堂や、阿弥陀如来を安置するどっしりと重装な阿弥陀堂、一切経が納められる経蔵などの大伽藍が建っています。また御影堂の北には大方丈や小方丈が建てられ、池泉回遊式の庭園などもあります。

威厳をたたえる三門といい、御殿のような大・小方丈といい、まさに徳川将軍家の権威を象徴する建物です。慶長8年(1603)、江戸幕府を開いた徳川家康は、知恩院を徳川家の菩提所と定め、前年に亡くなった生母・於大の方(おだいのかた)の菩提のために寺域を拡張して諸堂の建て替えを命じました。太子堂、金剛寺、親鸞聖人の墳墓などを別の場所に移し、7年をかけ、御影堂、集会堂、大方丈、小方丈、大小の庫裡などを建て、20余りの塔頭が置かれたそうです。その後、家康の子で徳川2代将軍の秀忠も、三門、経蔵の造営を行い、大いに威容を誇りました。

ところが寛永10年(1633)、僧坊から出火して伽藍のほとんどが焼失しています。徳川3代将軍家光は旧観の如く再興せよと命じ、6年をかけて伽藍はさらに拡大再建されます。ただ阿弥陀堂だけは、御影堂などの中心伽藍が並ぶ境内中段にはなく、永正14年(1517)に再建されたまま上段に残されていました。阿弥陀堂が御影堂の西に移築されたのはその約70年後の宝永7年(1710)といわれています。現在の阿弥陀堂は明治43年(1910)に再建されたものです。

この地はもとより吉水とよばれ、法然が比叡山を下り、西山広谷をへてこの地に移り、専修念仏の道場を開いたところといわれています。法然は、いかなる凡夫(悪人)も阿弥陀如来の本願を信じて阿弥陀の名号を称えれば浄土に往生できると説き、その教えは急速に民衆に広まっていったといわれています。その多くは既存の仏教では仏になるには障りがあるとされた女性や、殺生を生業とする猟民や漁民、仏門(聖道門)に入れない在家の庶民や、遊行する念仏聖、武士などの下層の人々だったようです。

しかし、勢いを増す法然の浄土の教えに対して、旧仏教界から非難が集まりました。実際、法然の教えを支持する者からは、聖道門を謗る者や論争をふっかける者、風紀を乱す者なども出たといわれています。延暦寺の念仏停止の訴えに対し、法然は七箇条制誡をつくり、門下190名の署名を付して延暦寺に提出しましたが、興福寺からも念仏停止を訴える「興福寺奏状」が朝廷に出されました。そしてついに後鳥羽上皇が寵愛する院の女房が法然門下のもとに出家するという事件も起きて、建永2年(1207)に法然以下、親鸞を含む弟子ら7名が流罪となったといわれています。

土佐(実際は讃岐)に流された法然は10ヵ月後に赦されて摂津の勝尾寺に入り、建暦元年(1211)に吉水に戻りますが、道場は荒れ果てていたそうです。このとき青蓮院の慈円(九条兼実の弟)の計らいで「大谷の禅房」に住むことになり、2ヵ月ほど経った建暦2年(1212)の正月、法然は弟子に見守られながらこの世を去りました。「大谷の禅房」は今の勢至堂のあたりといわれています。

弟子たちは大谷の禅房の東に廟堂を建て、法然の遺骸を葬りました。しかし法然没後から15年経った嘉禄3年(1227)、天台座主の訴えにより法然の弟子であった隆寛、空阿、幸西が流罪となり、さらに比叡山の僧徒たちが法然の遺骸を掘り起こして鴨川に流すという企てが発覚します。念仏の門弟たちは、密かに遺骸を西山の粟生野(あおの)光明寺で火葬して荼毘に伏し、法然の遺骨を守りましたが、山門の僧徒たちは大谷の禅房や念仏聖たちの住房を破壊したと伝えられています(「嘉禄の法難」)。

文暦元年(1234)、法然の弟子であった源智は大谷廟堂を再建して法然の遺骨を安置し、仏殿、御影堂、総門などを建て、法然を開山に知恩院大谷寺と改めます。その後、応仁文明の乱や火災などで堂宇が失われましたが、その度に修復再建されてきました。また、大永3年(1523)には百万遍知恩寺との本山争いが起きますが、青蓮院宮尊鎮(しょうれんいんのみやそんちん)法親王が朝廷に懇請し、浄土宗本山の地位が確保されたといわれています。

経蔵横の石段をさらに上がると、勢至堂や法然上人の御廟堂、墓地などがあり、ここまで来ると徳川家の威容は感じられません。勢至堂は享禄3年(1530)に建立された知恩院で一番古い建物で、法然上人の本地とされる勢至菩薩坐像が安置されています。丘の上の御廟堂は、慶長18年(1613)に松平伊豆守信一の寄進により建立されたものと伝えられています。

京都 知恩院の三門から見る京都の街
三門から見る京都の街
京都 知恩院のゆるやかな石段の女坂
ゆるやかな石段の女坂
京都 知恩院の急な石段の男坂
急な石段の男坂
京都 知恩院の御影堂
御影堂
京都 知恩院の阿弥陀堂
阿弥陀堂
京都 知恩院の多宝塔
多宝塔
京都 知恩院の経蔵
経蔵
京都 知恩院の御廟入口
御廟入口
京都 知恩院の勢至堂
勢至堂
京都 知恩院の蓮華堂
蓮華堂
京都 知恩院の御廟拝殿
御廟拝殿へ
京都 知恩院の御廟拝殿
御廟拝殿

徳川家の権威を示す大伽藍

知恩院の伽藍は三門をはじめ何もかも巨大で壮観です。なかでも破格の大きさを誇る三門は、徳川秀忠の命により大工の五味金右衛門(ごみきんえもん)が造ったものといわれ、ちょっと悲しい伝えがあります。たまにしか公開されませんが、楼上内部には釈迦牟尼仏像や十六羅漢像のほか、「白木の棺」に五味金右衛門とその妻の木像が安置されています。五味金右衛門は建築予算が超えれば責任をとって自から果てるつもりでいましたが、妥協を許さず後世に誇れる三門を建て、やはり予算超過してしまい夫婦で命を絶ったと伝えられています。

また境内には除夜の鐘で有名な大鐘楼があります。梵鐘は高さ3.3m、口径2.8m、重さ70トンの巨大なもので、撞木につながれた子綱を16人の僧侶が引き、1人の僧侶が親綱をもって仰向けになりながら鐘を打ちます。この様子はテレビでも放映されて馴染みがあります。

大方丈と小方丈の内部は通常非公開となっていますが、方丈庭園と建物外観は常時有料で拝観できます。方丈庭園は大方丈の南から東にかけて広がる南池と、小方丈の南に面した北池を中心とした回遊式の庭園です。作庭は南北朝時代に始まり、江戸時代初期に小堀遠州の弟子ともいわれる僧、玉淵や量阿弥らによって改修が加えられてきたといわれています。

南池の中島の石組はやや複雑で、脇に建つ石灯籠が情緒を添えています。また池庭につづくように「二十五菩薩の庭」があり、刈込みの中に石を配したサツキが群をなして並んでいます。石は阿弥陀如来と二十五菩薩を、刈込みのサツキは来迎雲を表し、臨終の際の来迎の様子を表現しているそうです。

大方丈と小方丈は寛永18年(1641)に建てられたもので、ともに屋根は入母屋造、檜皮葺、部屋の部分は書院造の風格ある建物です。なお知恩院の方丈は、もともと徳川将軍の来臨のために造られた居室で、住職が使う建物ではありませんでした。今、拝観で訪れても御殿のように華やかです。

知恩院には古くから伝わる七不思議なるものがあり、公開されているものとしては、狩野信政の筆による杉戸絵「三方正面真向の猫」や襖絵「抜け雀」、全長2.5mもある大杓子などがあります。「三方正面真向の猫」はどこから見ても猫と目が合うように描かれていて、チンチラのような母猫が子猫と遊んでいるのですが、目線だけはずっとこっちを見つめています。また「抜け雀」はあまりに上手に描かれたので雀が命を受けて飛び去ったといわれる絵で、どういう技法なのか、雀がうっすらと消えていくように描かれています。

大方丈入口の廊下の梁に挟まれている大杓子は、大阪夏の陣のとき三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)がこれを振り回して暴れたとか、この杓子で大釜からご飯をすくい、兵に振る舞ったなどと伝えられています。また、御影堂東側の軒裏にある、骨だけの「忘れ傘」は、江戸初期の名工、左甚五郎(ひだりじんごろう)が魔除けのために置いていったという説と、雄誉霊厳(おうよれいがん)上人が御影堂を再建するとき、住処がなくなった白狐のために濡髪堂を建ててやり、狐がそのお礼に知恩院を守るといって傘を置いたという説があるようです。知恩院は何かと逸話の多いお寺です。

京都 知恩院の納骨堂
納骨堂
京都 知恩院の大鐘楼
大鐘楼
京都 知恩院の大方丈と小方丈
大方丈と小方丈
京都 知恩院の方丈庭園
方丈庭園
家康、秀忠、家光が祀られる京都 知恩院境内の権現堂
家康、秀忠、家光を祀る権現堂
京都 知恩院境内の影向石(ようごうせき)
影向石(ようごうせき)
法然入滅のとき賀茂大明神が降臨したと伝えられる。
京都 知恩院境内にある徳川秀忠と江の長女、千姫の墓
徳川秀忠と江の長女、千姫の墓
千姫は7歳で従兄の豊臣秀頼と結婚、大坂夏の陣で大坂城から救出されたあと本多忠政の嫡男である本多忠刻(ほんだただとき)と再婚。寛永3年(1626)に出家して天樹院と号した。寛文6年(1666)没。知恩院に分骨された。
関連メモ&周辺

瓜生石
(うりゅうせき)

京都 知恩院境内の瓜生石
黒門への登り口の路上にある瓜生石。誰も植えたおぼえもないのにこの石から瓜のつるが伸び、花が咲き、瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後に再びこの石に来現し、一夜のうちに瓜が生え実ったという伝えがある。また石を掘ると、二条城までつづく抜け道があるとか、隕石が落ちた場所であるとか、さまざまな言い伝えがあり、これも知恩院七不思議のひとつとされている。

千姫の墓と
濡髪(ぬれがみ)大明神

京都 知恩院境内の濡髪(ぬれがみ)大明神
勢至堂奥に「千姫(徳川秀忠公の長女)の墓」があり、さらにその先に「濡髪(ぬれがみ)祠」がある。御影堂ができたために住む場所を追われたキツネが、知恩院第32世雄譽霊巌(おうよれいがん)上人にお願いし、代わりに用意してもらったのが、この「濡髪大明神の祠」といわれる。キツネが童子に化けていたときに髪が濡れていたので、こう呼ばれるようになったという。濡髪が艶やかな女性をイメージさせることから、祇園町の女性の信仰を集めているとか。

大方丈・小方丈
内部特別公開

京都 知恩院の大方丈 大方丈 京都 知恩院の小方丈 小方丈 京都 知恩院の方丈庭園 方丈庭園 京都 知恩院の二十五菩薩の庭 二十五菩薩の庭

特別拝観で、大方丈と小方丈の内部が公開されていた。大方丈は、54畳敷の鶴の間、上・中・下段の間、松の間、菊の間など11の間があり、狩野尚信、信政らの筆による金碧障壁画で彩られている。鶴の間はその名のとおり、さまざまなポーズの鶴が襖に描かれている。菊の間の「抜け雀」を間近で観たところ、飛び去った雀をぼかして描いたのか、絵具を剥がしたのか、よくわからなかった。
上段の間はかつて徳川将軍や宮様おなりの間となっていたため玉座が据えられている。また下段の間から中段の間、上段の間へと部屋の格が上がるにしたがって、天井も、格天井(ごうてんじょう)、折上格天井(おりあげごうてんじょう)、二重折上格天井へと格が上がる。また、上段の間には「武者隠し」とよばれる小部屋が設けられていて、裏上段の間からも確認できる。
大方丈から小方丈へとつづく廊下は、部屋に近い部分が鴬張りになっていて、歩くとキュッキュッと鳴る。それに対し縁側に近い部分は一段低くなっており、そちらを歩いても音は鳴らない。小方丈は大方丈の約半分の広さで、上段の間、下段の間、雪中山水の間、蘭亭の間などがあり、山水図などの水墨画の襖絵で飾られている。

主な参考資料(著者敬称略):

『新版古寺巡礼 京都16 知恩院』淡交社 /『知恩院散策記』浅木結・倉橋みどり・首藤真沙保 総本山知恩院/『法然』田村圓澄 吉川弘文館 /『日本の名著5 法然』塚本善隆・編 中央公論社 /

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