京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
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勝林院

(しょうりんいん)

三千院の門前を北へ、律川を越えたところに建つ勝林院は、長和2年(1013)に寂源(じゃくげん)によって建立されました。来迎院と並ぶ声明の道場であったといわれています。文治2年(1186)に天台宗の顕真(けんしん)が法然を招いて行った「大原問答」が有名で、問答寺とも呼ばれています。

京都大原 勝林院・本堂 本堂

INFORMATION
山号・寺号 魚山 勝林院(天台宗)
住所 京都市左京区大原勝林院町187
電話 075-744-2409(宝泉院)
075-744-2537(実光院)
アクセス 京都バス
京都駅から17,19系統で「大原」下車徒歩10分
地下鉄「国際会館」から京都バス19系統で「大原」下車徒歩10分
京阪電車「出町柳」から京都バス19,17系統「大原」下車徒歩10分
叡山電車「八瀬比叡山口」から京都バス「八瀬駅前」116,19系統で「大原」下車徒歩10分
拝観時間 9:00~16:30
拝観料 一般 300円 小中学生 200円
公式サイト https://www.shourinin.com/
※↑2024年6月更新

大原問答の「証拠の阿弥陀如来」が祀られる寺

勝林院のリーフレットには、魚山大原寺勝林院(ぎょざん だいげんじ しょうりんいん)と書かれています。円仁が唐で学んだ声明を比叡山に伝え、大原を天台声明の道場と定めて大原寺と総称したと伝えられています。いつだったかテレビで勝林院の方が「ここが魚山声明の発祥の地です」と言われていたのを思い出しました。

寺伝によれば、長和2年(1013)、円仁から数えて9代目の弟子にあたる寂源(じゃくげん)が声明念仏三昧道場として勝林院を建立したとされています。 寂源は、宇多源氏出身、左大臣であった源雅信(みなもとのまさざね)の子、源時叙(みなもとのときのぶ)です。兄に藤原時通(ふじわらのときみち)がいて、姉に藤原道長の正室、倫子(りんし)がいました。兄の時通に続いて、永延元年(987)、時叙が19歳で近衛少将の地位を捨て、比叡山で出家。大原に隠棲してからは大原入道少将とも呼ばれました。父雅信は「帰りたまへ、帰りたまへ」と嘆いたと伝えられています(『栄華物語』)。

寂源は比叡山で顕密を学び、永祚2年(990)に覚忍(かくにん)から両部潅頂を受け、のちに皇慶の弟子となり、寛弘9年(1012)に胎蔵界・金剛界潅頂を受けましたが、その翌年に大原に隠棲しています。なお、覚忍は円仁が相伝した声明のうち「長音九条錫杖」を浄蔵から継いでおり、寂源も覚忍から声明を学んだ可能性があるとも考えられています。

大原に籠った寂源ですが、隠棲3年後の長和5年(1016)に、母(藤原穆子・ふじわらのぼくし)の病を見舞いに京へ下って枕元で念仏を称えています。また寛仁4年(1020)には、藤原道長が大原の寂源を訪ねて講説を聞いたこともあり、万寿元年(1024)2月には藤原道長頼道が、腫物を患った寂源のもとに見舞いに訪れたことが『小右記』に記されています。その同じ月に寂源は入滅しました。

それから80年余り経ち、良忍(りょうにん)が比叡山を下ってまず入ったのが勝林院の永縁(ようえん)の室でした。その後、良忍は上院本坊として来迎院を建て、永縁は勝林院を下院本坊として、ともに魚山声明を発展させました。そのため良忍は本願、永縁は本家とも呼ばれます。

勝林院は度重なる火災や洪水により何度も再建・修復されています。現在の本堂は安永7年(1778)に再建されたもので、大きな屋根は椹(さわら)板で葺かれ、柱や梁、床板などはすべて欅(けやき)造りの堂々とした美しいお堂です。軒下を見上げると、欄間や手挟(たばさみ)に華やかで精緻な彫刻が施されています。

本堂の内陣には本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。旧本尊は仏師定朝の父といわれる康尚(こうしょう)の作であったといわれています。その後、旧本尊は被災するたびに補修されましたが、享保21年(1736)に焼失し、翌年の元文2年(1737)に現在の阿弥陀如来坐像が開眼供養されました。キリッとした面持ちは、橋幸夫さんか中井貴一さんに似ていらっしゃると思いました…。

勝林院の本尊は「証拠の阿弥陀如来」と呼ばれています。そのわけは法然と諸宗の高僧が論議した「大原問答」にあります。またそれ以前にすでに本尊は「証拠の阿弥陀」とよばれていたという記録もあります。寛仁4年(1020)に寂源が法華八講を行ったときの問答で、本尊が自らの意を示したといわれているのです。一方、法然の大原問答は、法然自身を一躍有名にした一大イベントでした。法然は、阿弥陀如来の本願を信じて「南無阿弥陀仏」と称えれば誰でも浄土に往生できると説いた浄土宗の宗祖です。

大原問答の発起人である天台宗の顕真(けんしん)は、比叡山で最雲法親王に師事し、明雲に顕教を、相実に密教を学びましたが、承安3年(1173)に大原に隠棲しました。そのころ世の中は荒れ続け、平氏の専横や、山門の強訴や、続いて源平の合戦や、平氏の滅亡や、大地震や、飢饉などが起きていました。顕真の師であった天台座主の明雲は、寿永2年(1183)に木曽義仲の軍が法住寺殿を攻めたとき、その矢に当たって絶命しています。慈円の『愚管抄』には「明雲ガ頸ハ 西洞院河ニテ求メ出テ 顕真トリテケリ」とあり、顕真が師の明雲の首を取りにいったことが記されています。

大原に入っても迷いの途にあった顕真は、坂本で法然に会い、生死(悩み・迷い)を離れるにはどうしたらよいか尋ねたところ、「まず極楽浄土に往生することです。成仏は難しいが往生は易しい」などと言われ、自ら籠居して法然が拠り所とした道綽(どうしゃく)や善導の著述を研究するのですが、納得できなかったようです。そこで文治2年(1186)、顕真は法然を招いて浄土の宗義について論議を交わすことにしました。これが大原問答(大原談義)です。

顕真の主催で、天台宗の証真智海、高野山の明遍(みょうへん)、笠置寺の貞慶(じょうけい)、東大寺の重源(ちょうげん)ら学僧たちが勝林院に集まり、法然に難問を投げかけました。このとき300人ほどの聴衆が集まったといわれています。

寺伝によれば、激しい問答が一昼夜つづき、法然はひとつひとつの問に答えて阿弥陀仏の本願を説いたとされています。そして「仏の願力を強縁として、称名念仏により、有知無知を論せず、人間ありのままの姿で迷いのままに往生できる」と凡夫往生の道をはっきり示したとき、本尊の阿弥陀仏がまばゆい光を放ってその主張が正しいことを証明したといわれています。そのとき諸宗の僧や大衆はみな信服して、三日三晩念仏を称え続けたとも…。

のちに法然は大原問答を回想して「法門は互角で優劣はなかったが、(どちらの教法が今の我々に相応しいかという)機根くらべでは私が勝ったと思う」と述べたとされています(『法然上人行状絵図』)。法然はつねづね専修念仏は易行であり、末法の世とそこに生きる人々にとって相応しい教えであることを説いていました。そしてその教えは経典の読誦も出来ず、聖道門の救いが叶わない庶民層に特に受け容れられていったようです。

大原問答に参加した高僧のその後はというと、顕真は、真言をやめて一時は念仏の一門に入りましたが、建久元年(1190)に天台座主に就任し、その2年後に入滅しています。重源は、再建途中であった東大寺の復興を継続し、完遂しています。造東大寺大勧進職にあった重源はもともと真言僧ですが、念仏に傾倒したこともよく知られています。自ら南無阿弥陀仏と号し、人々に阿弥号を付して勧進していました。また明遍は、高野山に蓮華三昧院を建てて隠遁し、専修念仏に帰依したと伝えられています。一方、明遍の甥の貞慶は、元久2年(1205)に『興福寺奏状』を起草し、専修念仏の停止を朝廷に訴えました。

大原 勝林院へ向かう未明橋
未明橋(三千院側からの名前)
律川にかかる。勝林院側からは茅穂橋。
未明橋のたもとにある熊谷直実(くまがいなおざね)の鉈捨藪(なたすてやぶ)跡
熊谷直実 鉈捨藪跡
橋のそばの碑。法然の弟子、熊谷直実は法然が談義に敗れた場合、法敵を討とうと鉈(なた)を隠し持っていた。 しかし法然に諭され、碑の背後の藪に鉈を捨てたという。
大原 勝林院の境内
境内
大原 勝林院の鐘楼
鐘楼
大原 勝林院の本堂
本堂
大原 勝林院の本尊、中井貴一さんに似ている阿弥陀如来坐像
本尊 阿弥陀如来坐像
脇侍に毘沙門天立像と不動明王立像が祀られる。本堂内には普賢菩薩像、白衣観音像、鎌倉期の踏出阿弥陀如来立像(ふみだしのあみだにょらい)、法然上人坐像などが祀られている。
勝林院の本尊・阿弥陀如来坐像の手に繋がる結縁のための五色の綱
本尊の手に繋がる結縁のための五色の綱
大原 勝林院の本堂欄間の彫刻
欄間の彫刻
大原 勝林院の本堂手挟(たばさみ)の彫刻
手挟(たばさみ)の彫刻
大原 勝林院の本堂西側
本堂西側
大原 勝林院の本堂裏手
本堂裏手
大原 勝林院境内の山王社
山王社
大原 勝林院境内の観音堂
観音堂
大原 勝林院境内の宝篋印塔
宝篋印塔
大原 勝林院境内の弁天堂
弁天堂
関連メモ&周辺

実光院
(じっこういん)

大原 勝林院の寺務所でもある実光院の山門 山門 大原 勝林院の寺務所でもある実光院の庭園、契心園 契心園 大原 実光院の客殿には本尊の地蔵菩薩が祀られている 客殿 大原 実光院庭園の手水鉢 庭園の手水鉢 大原 実光院の茶室・理覚(りかくあん) 茶室 理覚庵

勝林院の手前に建つ。勝林院の僧坊のひとつで現在は宝泉院と交互に勝林院の寺務所を務める。応永年間(1394-1428)に宗印法印により復興。大正8年(1919)、以前にあった普賢院と理覚院とが統合されて旧普賢院の寺地に移転された。本尊は地蔵菩薩座像。律川の水を引く心字池を中心とした契心園と、客殿西側の回遊式庭園(旧理覚院の寺地にあたる)の2つの庭園があり、四季折々の山野草、秋に咲く不断桜などが楽しめる。拝観時間:9:00-16:00/拝観料:一般500円(茶菓付800円) 小人300円(茶菓付600円)。詳しくは公式サイトへ。

宝泉院
(ほうせんいん)

大原 勝林院の寺務所でもある宝泉院の山門 山門 大原 宝泉院庭園・盤桓園の五葉松 盤桓園の五葉松 大原 宝泉院の客殿 客殿 大原 宝泉院の鶴亀庭園 鶴亀庭園 大原 宝泉院の水琴窟 水琴窟 大原 宝泉院庭園・宝楽園 宝楽園 大原 宝泉院庭園の猿田彦神社 猿田彦神社

勝林院の僧坊で実光院と交互に勝林院の寺務所を務める。立派な「五葉松」や「盤桓園(ばんかんえん)」「鶴亀庭園」「宝楽園」などの庭園、2種の音が聴ける「水琴窟」などがある。血天井は鳥居元忠とその家臣が豊臣軍と戦い自刃したときの伏見城の遺構。客殿で抹茶と茶菓がいただける。拝観時間:9:00-17:00(16:30受付終了)/拝観料:大人800円 中高生700円 小人600円(すべて茶菓付) 詳しくは公式サイトへ。

後鳥羽天皇・順徳天皇陵と法華堂

大原にある後鳥羽天皇・順徳天皇陵 後鳥羽天皇・順徳天皇陵 法華堂 法華堂

実光院の向かいに後鳥羽天皇と順徳天皇の御陵がある。梶井門跡に住持した後鳥羽院の第10皇子・尊快法親王の母である修明門院の意向で、仁治元年(1241)に法華堂が建てられ、旧実光院の後園に後鳥羽院の遺骨が納められた。後鳥羽上皇は承久3年(1221年)承久の乱に敗れ、延応元年(1239年)、配流先の隠岐で崩御。その後遺骨が京都に運ばれた。仁治3年(1242)に配流先の佐渡で崩御した順徳天皇(後鳥羽天皇の第3皇子)が合葬されている。

主な参考資料(著者敬称略):

『古代中世の史料と文学』義江彰夫・編 吉川弘文館/『新版古寺巡礼 京都4 三千院』淡交社 /『日本の名著5 法然』塚本善隆 中央公論社 /『京都・宗祖の旅 法然 浄土宗』左方郁子 淡交社 /『新編日本古典文学全集31 栄華物語1(巻第三)』山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進・校注/訳 /

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