上賀茂神社
(かみがもじんじゃ)その22人のカグヤヒメをめぐって
鴨県主系図で玉依比古から11代目の大伊乃伎命は、下鴨神社では猿田彦にあてられています。その大伊乃伎命の妹に賀具夜媛命(かぐやひめ)がいて、古事記に登場する迦具夜比売(かぐやひめ)ではないかと疑っています。かぐや姫は平安時代に書かれた「竹取物語」の主人公ですが、そのモデルが第11代垂仁天皇の妃となった迦具夜比売といわれています。しかし古事記の系譜の段にしか現れず人物像はナゾです。
ここからは、建角身命の足跡をたどりながら、カグヤヒメとの関係性を探ります。「山城国風土記」で、建角身命が葛木から移ったといわれる相楽郡の岡田は奈良と京都の境に近く、木津川のほとりに建角身命1柱を祀る岡田鴨神社があります。付近一帯は天平12年(740)に聖武天皇によって恭仁京が開かれたところでもあります。木津川中流は、西に行けば河内(大阪湾)に、東に行けば伊勢や東国に、南北はそれぞれヤマトや近江に通じる水陸交通の要衝で、岡田鴨神社の西約10kmに3世紀後半築造といわれる椿井大塚山古墳があります。古墳からは32面という大量の三角縁神獣鏡や鉄製の武具、漁具などが出ています。
第10代崇神天皇の御世に、四道将軍のひとりである大彦命(おおびこのみこと・母は物部氏)と和珥臣の遠祖、彦国葺命(ひこくにふく)が、謀反を起こした武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻の吾田媛を鎮圧する話が記・紀に語られます。武埴安彦が討たれたのが椿井大塚山古墳近くの木津川を挟んだ対岸で、木津川はもとは輪韓河(わからがわ)と呼ばれ、川を挟んで戦ったことから、挑河(いどみがわ)といい、それが訛って泉河(いずみがわ)と呼ぶようになったとされています。このとき武埴安彦を討ったのは和珥臣の遠祖、彦国葺命。岡田鴨神社は少し離れていますが、下社の境内に流れる小川も「泉川」です。由来は挑河ではなく、陶津耳ゆかりの茅渟県がある和泉かもしれません。
一般的な和珥氏系図(太田亮氏が真偽詳らかならずとした駿河浅間大社の系図がベース)によれば、天足彦国押人命の3世孫の彦国葺(ひこくにふく)のさらに孫、難波根子建振熊命(なにわのねこたけふるくま)の子が4流にわかれ、米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみ)の系統が本宗となり、多くの支族が出たことになっています。また、彦国葺の兄弟の伊富都久命は丈部・丸部の祖といわれるので、こちらの流れが賀茂社と関係するのかも?丈部は鴨県主系図からも出ています。
伊富都久命には、妹の意祁都依比売命(おけつよりひめ)がいて、彦坐王(ひこいますのみこ)の妃になり、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を生んでいます(『記』では意祁都比売命・『紀』では姥津媛)。そして『古事記』の伝える系譜では、その子孫から息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)や神功皇后が出ます(母系祖は天日矛)。
さらに『古事記』によれば、日子坐王(彦坐王)の妃に、天御影命の娘(伝えられる系譜では天御影命の6世孫または7世孫)の息長水依比売(おきながみずよりひめ)があげられています。天御影命は鴨県主の祖です。息長氏と通婚があったということでしょうか。そして日子坐王と息長水依比売との子のひとりに、丹波比古多多須美知能宇斯王(たにわのひこたたすみちのうしのみこ・丹波道主命)がいるとされています。
また『書紀』では、彦坐王の子が丹波道主命(たにわのみちぬし)とされる一方、開化天皇と丹波竹野媛(たにわのたかのひめ)との子、彦湯産隅命(ひこゆむすみ)の子を丹波道主命とする異伝もあります。丹波竹野媛は、丹波大県主由碁里(ゆごり)の娘とされていますが、由碁里が何者なのかははっきりしません(建諸隅命とも)。
そしてこの彦湯産隅命(ひこゆむすみ)の子孫からカグヤヒメが出ます。丹波道主命の父ともいわれる彦湯産隅命には、大筒木垂根王(おおつつきのたりねのみこ)と讃岐垂根王(さぬきのたりねのみこ)という2人の子もあり、大筒木垂根王の娘、迦具夜比売(かぐやひめ)が垂仁天皇の妃となり、袁耶弁王(おざべ・おなべのみこ)を生んでいます。
また、和珥臣の遠祖、日触使主(ひふれのおみ)の娘・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の妹とされるのが袁邪辨郎女(おざべのいらつめ・小甂媛・おなべひめ)で、宮主宅媛とともに応神妃になったとされています。袁耶弁王と袁邪辨郎女の関係はどこにも語られませんが、まったく無関係というわけではないでしょう。ちなみに袁耶本王(おざほのみこ)は葛野之別、近淡海の蚊野之別の祖といわれています。
ただ『旧事紀』では、小甂媛は物部多遅麻大連の娘、物部山無媛(香室媛)の妹とされています。小甂媛(袁邪辨郎女)については和珥氏とも物部氏とも判別がつきません。一方、鴨県主系図の賀具夜媛命(かぐやひめ)は『鴨県主家伝』によれば「垂仁廿七年祭大神斎祝奉仕」とあり、天御影命や建角身の子孫に関係すると思われる迦具夜比売(かぐやひめ)と同時代、つまり垂仁天皇の時代にもう一人のカグヤヒメが存在するのです。ポピュラーな名前だったとか? 一番の疑問は、長岡京市の建角身に関係する角宮神社になぜか垂仁天皇が祀られているのです。「竹」に関しても気になることがあるのですが、つづきはまたの機会に…。
乙訓の大雷神社と火雷神
建角身命が葛城から移ったとされる相楽(さがらき)や乙訓は、丹波とのつながりが記・紀に示唆されます。『書紀』垂仁紀には、垂仁天皇が丹波道主命の娘5人を召して後宮に入れ、そのなかで竹野媛だけがブサイクだったため里へ返され、恥じた竹野媛が、自ら輿から落ちて亡くなった所に堕国(おちくに)の地名がついて、訛ったのが弟国(乙訓)だと伝えられています。
この竹野媛は開化天皇の妃ではなく、その子孫の丹波道主命の娘です。『古事記』では、歌凝比売(うたごりひめ)と円野比売(まとのひめ)が同じくブサイクという理由で返されたことになっています。円野比売は丹波への帰途、相楽(さがらき)で木に懸かって自死を試みるも失敗し、弟国に来て深い淵に堕ちて亡くなったと伝えられます。森浩一氏は、イクメイリ彦(垂仁天皇)の、女性への対応のマズさが原因だと著書で指摘されていました。
乙訓周辺には大規模な古墳群があり、向日丘陵には3世紀中葉から後半頃に築造されたとみられる五塚原古墳、3世紀後半の元稲荷古墳、4世紀代の寺戸大塚古墳、妙見山古墳(現在は消滅)などの大型古墳が築造されていて、これらは1系譜の代々の首長墓とみられるそうです。向日神社のすぐ北に接する元稲荷古墳は、箸墓古墳をモデルに1/3の規模で築造され、墳丘は神戸の西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)と同型の前方後方墳。ヤマト王権の象徴である前方後円墳を採用していないことから、王権に参画しつつも自立性が高い首長の墳墓とみられています。
また、寺戸大塚古墳からは全国でも希少な三角縁仏獣鏡一面が出土しています。鏡には結跏趺坐する仏像のレリーフが施され、公伝の仏教伝来時期より遥かに古い前期古墳に副葬されていました。さらに、神戸の東求女塚古墳(ひがしもとめづかこふん)と同型の三角縁神獣鏡2面も出土しています。また同系譜の最後の首長の古墳とみられているのが妙見山古墳で、丹後の蛭子山古墳の舟形石棺と関連のある埋葬施設をもち、全長114mという向日丘陵最大の規模をもっていたといわれています。なお、寺戸大塚古墳の三角縁仏獣鏡と同型の鏡は、別系譜の首長墓と思われる樫原の百々池古墳(どどいけこふん)や、南丹市園部町の垣内古墳(現在は消滅)からも出土していて何らかの繋がりが考えられます。
元稲荷古墳に接する向日神社はもとは上下2つの神社からなり、上ノ社には、向日神(御歳神)が祀られてきたといわれています。また、いつからか下ノ社の祭神であったといわれる火雷神が合祀されています。向日神社の歴史は複雑で、祭祀に従事した神職にもかなりの変遷があったようです。また、かつての乙訓には鴨族に関係する神社が数多く祀られていました。火雷神が祀られた乙訓社の場所も定かではありませんが、延長5年(927)に成立した『延喜式』神名帳には「向神社」とは別に「乙訓坐大雷神社」も式内社に列せられていました。この神社にはもともと「山城国風土記」に書かれた乙訓坐火雷神とは別の神が祀られ、のちに火雷神社とされたことにより、多くの混乱を招いたと思われるのです。
下鴨神社のページでも述べていますが、下社の禰宜・鴨俊永の「筥傳授(はこでんじゅ)」には「建津乃身命の招禱奉れる渾沌殿の事跡は今の乙訓の地にて、其の處に八尋殿を造れり、それを大雷社(おおいかづちのやしろ)と称するなり」と書かれます。火雷神社これなりと註記されるのですが、それは随分あとの時代になってからのようです。大雷は天御影命の子の意富伊我都命(おおいかつ)にあたり、別雷命を指すと思われるので、建角身命が別雷命の酒宴のために建てた八尋殿が大雷社でしょう。建角身を祀る渾沌殿の敷地に建てられたようで、「鴨県纂書」にも火雷神社は建津乃身命なりと書かれています。「河合神職鴨県主系図」の大二目命の譜にある「鴨建角身命社」の可能性もあり、角宮神社も論社です。
その後、火雷神社といわれるようになった経緯は不明ですが、承久の乱を境に混乱があったようです。また時代により、乙訓社と火雷神社の区別もあいまいですが、両社の神階昇叙や奉幣は別々に行われています。
そしてさらに俊永の「筥傳授」には、建角身命が建てた大雷社に「斯て(かくて)皇大神(神武の神魂也)を招禱奉りて、それより美都の正殿を竪奉れり、八戸扉是也」と書かれています。別雷命と神武天皇は同一なのか、同一と見なされたのか、玉依比売の子に神武天皇がいるから合祀されたのかは不明ですが、賀茂社は皇大神宮と呼ばれていました。上賀茂神社では畝傍山(うねびやま)に向かって神武天皇を遥拝する式典があります。
その後、継体天皇が弟国宮に遷都した6世紀初頭には、鴨県主や葛野主殿県主部と呼ばれた人々は、ともに乙訓や葛野に住み分けながら継体天皇を支えたことでしょう。継体天皇は息長氏出身説があり、息長氏の系譜はワニ氏や物部系の氏族とも深く関わっているようです。それに継体妃となった荑媛(はえひめ)は和珥臣出身で、天皇が重用した人物に物部麁鹿火(もののべのあらかび)がいます。また、山代国には鴨県主と同祖関係の氏族がたくさん居住していました。山代国造(山背忌寸)や出雲臣、土師氏も同系統の氏族で、乙訓には土師氏や尾張連系の石作氏も居住していました。
5世紀の雄略天皇の時代にはすでに秦氏も山代国に入っていたと考えられています。考古学的には、乙訓の古墳群から時代の断裂をへて太秦付近に勢力図が移ったと考えられるそうで、秦氏がまず拠点をもったのは太秦という説が有力です。
なお、大伊乃伎命の娘と秦造酒(はたのみやつけさけ)との婚姻があり、その際、秦氏に葛野県を譲渡したという伝えがあるようです(『古代氏族の研究11 秦氏・漢氏』宝賀寿男氏)。もし本当なら、建角身の系統が秦氏に葛野県を譲ったことになるのでしょう。ただ、大伊乃伎命は崇神朝から垂仁朝の時代の人物とされているので、時代が合わず鵜呑みにはできません。とはいえ、建角身系の祭祀を秦氏が継承したような痕跡はいくつもみられます。そしてそれが「山城国風土記」とそっくりな秦氏の伝承へとつながっていくと思われるのです。
立砂、河合に建つ楼門、本殿の拝観など
上賀茂神社の境内、細殿の前に立砂があります。円錐形の2つの立砂は神体山の神山に模され、てっぺんにつけられた松葉は、神が降臨するための依り代といわれています。ちなみに下鴨神社に立砂はありません。向かって右の松葉は2本(陰)、左は3本(陽)で陰陽を表しているのだとか。楼門は御物忌川(おものいがわ)と御手洗川(みたらしがわ)の2つの河合いに建っていて、その先に中門、さらにその奥に本殿があります。河合いは和合の象徴です。2つの川は合流して「ならの小川」となり境内を流れています。また、葵祭の祭庭となる橋殿や細殿などの建物は楼門の外にあり、広い境内には多くの摂・末社があります。一方、下鴨神社の祭庭は楼門内にあります。
本殿と権殿は初穂料を納めると拝観できます。人数がまとまると直会殿(なおらいでん)でご由緒の説明があり、お祓いを受けたあと案内していただけます。賀茂社ではお祓いがとても重要とされていて、受ける側もなんとなくスッキリした気分になります。
本殿には賀茂別雷命が祀られており、その隣の本殿とそっくりな権殿は、遷宮などのときに神さまに一時的に本殿からお遷りいただくためのお社となっています。どちらも檜皮葺(ひわだぶき)、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、文久3年(1863)に孝明天皇の命により造り替えられたもの。文久3年といえば、孝明天皇が賀茂社で攘夷祈願をされた年です。本殿の扉のはめ板に描かれた狛犬と獅子は、本殿を護る実物の狛犬と獅子がはめ板に映ったとされ「影狛(かげこま)」とよばれています。また、本殿前には土師尾神社が、権殿前には杉尾神社が鎮座しています。
本殿と権殿以外の建物の多くは、寛永期に東福門院の発願で造り替えられたものといわれています。そのころ境内は荒れ果てていたため大規模な工事となったようで、このときの費用は幕府によって負担されていました。当時の棟梁頭は徳川幕府お抱えの中井家で、中井大和守は現場監督を務める一方、実際の仕事は上賀茂神社独自の建築様式に精通した上社出入り大工を登用したそうです。
ところで、上賀茂神社も下社や多くの神社と同様、神仏習合により、11世紀ごろから近世まで境内には神宮寺や観音堂、鐘楼、多宝塔などの仏教伽藍が建ち並んでいたといわれています。実際にはすでに8世紀前半に鴨県主黒人が仏教に熱心に帰依し、9世紀前半には神戸(かんべ)の百姓によって、上賀茂神社の東の岡本里に賀茂大神のための仏教道場「岡本堂」が建てられたといわれています。また弘仁11年(820)には、賀茂社の禰宜男牀が神託を聞き「聖神寺」を建てています。そしてその「聖なる神の寺」を政府も厚遇したようです。
上社のミアレ神事の建御名方命と瀬織津姫
天武天皇の白鳳6年(678)に上賀茂神社に建てられた遥祭殿は、神さまに常に鎮座してもらうための本殿ではなく、祭祀を行うための祭殿で、お社の前後には扉があり、神山(こうやま)が遥拝されたといわれています。現在のような本殿が造営されたのは平安時代(中世とも)になってからといわれますが、その頃でも社殿後方には扉がつけられていたそうです。
神体山の神山は本殿と権殿の背後約2kmのところに位置するお椀をひっくり返したような低くこんもりとした山で、磐座には巨岩がありますが、禁足地になっていて入山はできません。境内の祭庭や諸殿はこの神山に向かって祭祀を行うよう配置されているそうです。そして本殿と権殿の間の透廊(すいろう)からは神山が望めるともいわれますが、実際は見えません。じつは本殿は神山を結ぶ直線に対して約14度ずれて西を向いているそうです。では本殿はどこを向いているのかというと、鴨川の源流である桟敷ヶ丘(さじきがおか)を向いているという説や、内裏の鬼門を向いているという説があります。勝手な想像ですが、本殿正面が稲荷大社に向いているようにも思えます。
別雷命の再生と降臨を祈願する御阿礼(みあれ)神事は、もとは神山の磐座で行われていました。現在の御生所(みあれどころ)は神山の磐座と本殿をむすぶ線上の丸山の一角といわれています。そこに松や桧や杉などで四角く囲った神籬(ひもろぎ)をつくり、阿礼木を立て、立砂をつくって宮司さん以下数名の神職は、秘事を厳修、秘歌を黙奏して、榊に神が憑りつかれるのを待たれるそうです。
上賀茂神社の「御阿礼神事」は葵祭の前儀として5月12日の夜間に神職のみで非公開で行われます。この点で、朝日を仰ぐ下鴨神社の御生神事とは大きく異なります。鴨県主の祖・天櫛玉命(伊勢都彦命)が夜中に大風を起こして波を打ち上げ、昼のように光り輝いたことと関係があるのでしょうか。また、江戸時代の上賀茂神社の禰宜・賀茂経千によって記された「賀茂本縁秘訣」(『賀茂社記録』第47冊)によれば、葵祭の神事ではとりわけ「雲」が重要とされています。雲は雨や雷光を呼ぶからでしょう。
なお、ミアレ神事の由来について「賀茂旧記」には、賀茂別雷命が天に昇ってしまったあと、子を恋しく思う御祖神(みおやがみ)の夢に別雷命が現れて、「天羽衣、天羽裳を造り、火を炬き、鉾をささげ、奥山の賢木(さかき)を取って阿礼に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬(そうめ)を行い、葵楓(あおいかつら)の髪飾りをつくり装って待てば、吾は現れる」と告げたと記されています。
このことに関連して、先の「賀茂本縁秘訣」には少し気になる記述があります。それはミアレ神事の御囲(おかこい)の項で、「一、御囲ノ柱数。六十四本此外外前ニ榊二本立。梶田ト諏訪也」とあり、御阿礼所(みあれどころ)として神籬(ひもろぎ)を作るために、64本の柱で囲い、外前に榊(さかき)を2本立てるとされています。榊も阿礼木も神の依代(よりしろ)ですが、2本の榊は御囲の前方両方向から中央の阿礼木に向けて立てかけられ、その2本の榊が「梶田ト諏訪」と書かれているのです。
梶田社の祭神は瀬織津姫神(せおりつひめ)。一方、諏訪社とは片山御子神社の南の少し高台に鎮座する須波神社のことで、現在の祭神は、阿須波神(あすはのかみ)、波比祇神(はひぎのかみ)、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)の5柱1座ですが、『賀茂社記録』第2冊によれば、建御名方命(たけみなかた・信州諏訪社御同躰)とされています。建御名方命は最後まで国譲りに抵抗し、建御雷神(たけみかづち)に追われて諏訪に封じられたとされる神です。ところがミアレ神事では、瀬織津姫神と建御名方命が、別雷神の降臨する阿礼木に向けてセットで招祷(おき)奉られるのです。
「賀茂旧記」の文脈では別雷命の再来を待つ御祖(みおや)とは、玉依比売命と建角身命ですが、普通、ミアレ神事の御祖とは別雷命の両親ではないでしょうか。外祖父から別雷命が生まれたらちょっと怖すぎです。瀬織津姫神と建御名方命は、玉依比売命と火雷神に対応するように思えてくるのです。神話では八重事代主命と建御名方命は異母兄弟とされていますが、建角身命と天日鷲翔矢命も一応義理の兄弟です。そしてやっぱり本居宣長の言う通り、伊勢都彦命=建御名方命? なお、阿須波神、波比祇神、生井神、福井神、綱長井神の5柱は坐摩神(いかすりのかみ)と呼ばれ、合体した賀茂の両系統に関係の深い神さまと思われます。
下社の分立は賀茂祭が原因ではなく…
ところで「賀茂旧記」には、別雷命の降臨祈願のひとつとして走馬の斎行があげられていますが、賀茂社と馬との関わりについてはもうひとつの伝えがあり、乗馬の起源として「山城国風土記」逸文に語られています(大意)。
-----
欽明天皇の御世(推定在位539-571)に暴風雨が起き、作物は育たず飢饉に見舞われた。そのとき卜部(うらべ)の伊吉若日子(いきわかひこ)に勅して占わせると、賀茂の神の祟りだという。そこで四月の吉日に祭りを行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭をかぶり、馬を走らせて祈りを捧げたところ、五穀豊穣となり天下も平穏になった。そしてこれが馬に乗ることの始まりとなった。
-----
余談ですが、上賀茂神社では玉依比売に関連して鈴が大切にされています。娘の姫蹈鞴五十鈴姫の名にも鈴がついていますが、五十鈴川は伊勢の内宮にも流れています。また貴布祢神社の元宮には鈴鹿社も祀られています。賀茂祭の始まりで、馬に鈴をかけたというのも関係があるのかもしれません。
なお、このとき賀茂の神の祟りと占った伊吉若日子は、系譜上は、顕宗3年に月読神社を奉祭した壱岐氏の押見宿祢(おしみのすくね)の3代孫とされています。「猪頭」は古い写本では「猪影」と書かれていて、猪の恰好をして馬に乗ったという説があります。馬を走らせる勇壮な祭に大勢の人がつめかけるようになり、やがて民衆までもが武器をとって参加し出したことから、朝廷はたびたび賀茂祭に干渉して騎射を禁じます。騎射とは流鏑馬のようなものといわれています。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698)に「人が集まり騎射することを禁ず」、大宝2年(702)に「山背国以外の者の騎射を禁止」、和銅4年(711)には「今後毎年、国司が出向いて賀茂祭を監視せよ」との詔が出されました。
しかし、国司の監視下でも暴動があったのか、神亀3年(726)には「人が集まることを一切禁止(『本朝月令』所載「類聚国史」)」と再び取り締まりが厳しくなっています。ただ、その後も祭は盛大に続けられていたようで、天平9年(737)には大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が、賀茂祭の見物に訪れたことが『万葉集』の題詞に記されています。一行は平城京から山背に来て、祭を見たあと逢坂山を越えて琵琶湖を望み、仮寝の場所を探そうとしたようで、なかなかハードなツアーとなったようです。ちょうど疫病が流行り出す頃なのに、この人たちは体力十分です。
そしてその翌年の天平10年(736)には「勅す。此年(和銅4年)以来、人馬会衆することを悉く禁止してきたが、今後は思うように祭りをしてよい。ただし、祭礼の庭で乱闘をしてはならない(『類聚三代格』)」と、賀茂祭の規制が解かれたのです。この前年、国中で疫病が猛威を振るい、旱魃による飢饉も伴って多くの死者が出ています。また藤原不比等の子の武智麻呂(たけちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の4兄弟も全員疫病(天然痘)で亡くなっていました。聖武天皇は、諸国の神社に祈祷をさせ、多勢の僧に宮中や諸国で金光明最勝王経の転読をさせています。かつて賀茂の神の祟りで大飢饉が起き、賀茂祭が始まったというのに、賀茂祭を厳しく取り締まっている場合ではなかったのでしょう。
そしてそれ以降、賀茂社はますます国家に頼られていきます。天平12年(740)に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が起こり、聖武天皇は乱の最中に、伊勢、美濃、近江に行幸したあとその足で恭仁京遷都を敢行されています。その恭仁京のそばには岡田鴨神社がありました。また聖武天皇が天平17年(745)5月に平城京に戻ってからの4ヵ月は凄まじい頻度で地震や火事が起き、9月に天皇が聖体不予となったときには、賀茂社と松尾社に奉幣され、祈祷が行われています。諸寺では大般若経が読まれ、八幡社にも奉幣が行われました。
その直後に下鴨に社殿が建てられ、賀茂社は上下社となったのです。都市計画にもとづいたさらなる国家鎮護のためと思われるのです。そしてその後も賀茂社は朝廷に厚遇され、長岡京遷都のときには、遠く離れた京域外にありながら、いきなり従二位という高い神階を授かっています。また、延暦25年(806)の桓武天皇崩御に際して、葛野郡宇太野に山陵が定められたときには、北山と西山から山火事が起き、大井、比叡、小野、栗栖野の山麓も焼け、京中は烟や灰に包まれたといいます。このとき山陵が賀茂神に近いため、神が起こした火と解されて、山陵の地は紀伊郡の柏原陵に変更されました。よっぽど神威が畏れられたのか、その翌年、間髪入れずに賀茂社は正一位を授かっています。ときの皇室や朝廷にとって賀茂の神は特別に配慮されるべき存在だったのです。
葵祭の前儀・賀茂競馬(かもくらべうま)
賀茂社では神馬が大切にされていて、馬に関わる神事が数多くあります。とくに葵祭の前儀として毎年5月5日に催される賀茂競馬(かもくらべうま)は見応えがあり、毎年大観衆で賑わいます。これは天下泰平と五穀豊穣を祈願する重要な神事で、左方(さかた)と右方(うかた)に分かれた2頭の馬が、馬場を走り速さを競い合うというものです。スタート時に1馬身差で走り出して、その差が縮むか開くかで勝負が決められます。平安時代末期に始まったといわれ、現在も古儀を踏襲して行われています。
騎手は乗尻(のりじり)とよばれ、左方がオレンジ色、右方が緑色の装束を身に着けます。これは左・右近衛府が、平安京大内裏の武徳殿で舞楽に着用したのに倣ったものだそうです。勝負は10番。西側の芝生が馬場で、一の鳥居の側から二の鳥居の方向に駆け抜けます。スタート地点には「馬出しの桜」、中ほどの加速地点には「鞭打ちの桜」、ゴール地点には「勝負の楓」が植わっています。近くで観るとものすごく迫力があります。ちなみに当日の観覧は無料ですが、有料観覧席も設けられます。
また競馬に先駆けて、5月1日に競馬で走る馬の順番を決めるための「足汰式(あしぞろえしき)」が行われます。馬を1頭ずつ走らせて乗尻の馬の扱いや馬足の優劣などで番立(ばんだて)を決めるらしいのですが、この日に鞭(むち)を清める「お鞭洗いの儀」や、馬の足を清める「乗馬足洗いの儀」も行われます。実際、5日の競馬までの間に行われる「祓」は十数度もあるのだとか。
5月15日の葵祭の「路頭の儀」では、倭文庄(しどりのしょう)と加賀庄の馬と乗尻が、競馬のときと同じ装束で行列の先頭に立ち先導します。上賀茂神社の「社頭の儀」では走馬が奉納され、祭礼の締めくくりとして、1頭ずつ境内奥から御生所まで「山駆け」をして幕を閉じます。山駆けは上賀茂神社だけの神事です。