京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
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大徳寺

(だいとくじ)

著名な禅僧や茶人、戦国大名や芸術家ともかかわりの深い大徳寺。鎌倉時代、大燈国師により開かれた大徳寺は、室町時代に林家の寺となり、応仁の乱後、一休宗純により中興されました。秀吉の時代、山門の金毛閣に千利休の木像が置かれたことにより、利休は秀吉の怒りを買って切腹させられたといわれています。

京都 大徳寺山門「金毛閣」 山門 金毛閣

INFORMATION
山号・寺号 龍宝山 大徳寺(臨済宗大徳寺派)
住所 京都市北区紫野大徳寺町53
電話 075-491-0019
アクセス 市バス 1,12,101exp,102exp,M1,北8,204,205,206系統
「大徳寺前」下車すぐ
拝観 山内自由
常時公開の塔頭:高桐院大仙院龍源院瑞峯院は本文のさらに下部を参照のこと
公式サイト http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/
※↑2019/4確認時の情報です。

宗峰妙超、一休、沢庵・・・大徳寺ゆかりの禅僧たち

船岡山の北、北大路堀川の少し西に大徳寺があります。臨済宗の禅寺である大徳寺は、広い山内に禅宗の中心伽藍と多くの塔頭が建ち並んでいますが、普段そのほとんどは立ち入りできません。常時公開されているのは高桐院(こうとういん)、大仙院(だいせんいん)、龍源院(りょうげんいん)、瑞峯院(ずいほういん)の4つの塔頭で、本坊やその他の塔頭は不定期に設定される特別公開のときにのみ参拝が可能となっています。

このあたりは京都七野のひとつ、紫野(むらさきの)と呼ばれ、古くは皇族たちの遊猟地でした。この地を好んだ淳和天皇は、離宮・紫野院を建て、たびたび行幸されたといわれています。紫野院はその後、天台宗の遍照(へんじょう)を迎えて雲林院という官寺になりました。

大徳寺は鎌倉末期の正和4年(1315)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、叔父の赤松則村(あかまつのりむら)の帰依を受け、雲林院の地に小庵を建て、大徳寺と称したのが始まりとされています。この時代、皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、交替で天皇を出す両統迭立が行われていました。大徳寺創建時の天皇は持明院統の花園天皇です。

宗峰妙超は、弘安5年(1282)に播磨に生まれ、11歳で西の比叡山とよばれる書写山円教寺に入って天台教学を学び、17歳で学問をやめ、禅を志して京都や鎌倉に師を尋ねて参禅しています。23歳のとき、鎌倉の万寿寺で高峰顕日(こうほうけんにち)に出会い、その勧めで南浦紹明(なんぽじょうみょう)に入門し、26歳で大悟して南浦紹明の法嗣となりました。

高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子で、夢窓疎石なども師と仰いだ高僧でした。また、南浦紹明(大応国師)は、正元元年(1259)から8年間入宋して虚堂智愚(きどうちぐ)に師事し、帰国後は鎌倉から筑前に移り、興徳寺、崇福寺の住寺となって30年余りを過ごしています。その後の嘉元2年(1304)、後宇多天皇の招きを受けて京都太秦の韜光庵(とうこうあん)に寓居、翌年京都万寿寺の住寺となります。宗峰妙超を弟子としたのはその頃でした。その後、南浦紹明は宗峰妙超を随えて鎌倉建長寺に入りました。

南浦紹明の示寂後、宗峰妙超は京都にもどり、東山五条の雲居庵(うんごあん)に隠棲し、昼間は五条橋周辺で乞食行に明け暮れていたといいます。正和4年(1315)に紫野の小庵、大徳寺に移り住んだとき、彼は34歳でした。やがて大徳寺に多くの僧俗が集まり、宗峰妙超の名は朝野に聞こえていったようです。同時に旧仏教界の干渉も高まりました。しかし当の宗峰は相変わらず五条橋で修行を続けていたそうです。宗峰は、印可の際に南浦紹明から言い渡された20年の聖胎長養(しょうたいちょうよう・大悟の後の修行)を守っていたのです。

花園天皇は歴代天皇のなかでも飛びぬけて学識深く信仰心の篤い人だったといわれています。そのころ禅に傾倒していた天皇は宗峰のうわさを聞き、乞食の群れの中から彼の大好物の甜瓜(まくわうり)で釣って探し出したという逸話があります。ある日、天皇の命を受けた役人が乞食たちに甜瓜をただで与えると布告し、集まった乞食に「脚なくして来たれ」というと、その中の一人が「無手で渡せ」と言ったので、即座に宗峰だとバレてしまったという話です。

また、禁中で宗峰が花園法皇と対座したとき、宗峰があまりに堂々としているのをみて法皇が「仏法不思議、王法と対坐す」と言うと、宗峰はすかさず「王法不思議、仏法と対坐す」と応じて法皇を満足させたとも伝えられています。

文保2年(1318)、花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位します。大徳寺の草創期、旧仏教勢力は新しく興った禅宗の宗旨を巡ってしばしば論争を起こしています。正中2年(1325)に禁中清涼殿で行われた「正中の宗論」では、天台宗の玄慧(げんね)や東寺の虎聖、南都の学匠らの論難に対して、南禅寺の通翁鏡円(つうおうきょうえん)が宗峰を随えて勝利したため、玄慧は弟子の礼を執り、邸宅を寄進して大徳寺方丈が建立されたといわれています。

これにより花園上皇は大徳寺を持明院統の祈願所とし、後醍醐天皇は大徳寺を朝廷の勅願道場としました。つまり大徳寺は持明院統・大覚寺統の両統から崇敬を受けたのです。翌年の嘉暦元年(1326)には祝国開堂され、龍宝山大徳寺が公式に誕生するのです。そして元弘3年(1333)には後醍醐天皇より「本朝無双之禅苑」(ほんちょうむそうのぜんえん)の勅額と宸翰を賜ります。その後大徳寺は後醍醐天皇によって南禅寺とともに五山の第一位とされ、大燈国師(宗峰妙超)一門により法流が継承されることになりました。

ところが室町時代になり、南朝系の後醍醐天皇に敵対していた足利家が台頭すると事態は一変します。将軍・足利義満の代になると大徳寺は五山はおろか、十刹中第九位に落とされてしまうのです。永享3年(1431)、大徳寺は自ら五山の制を離れ、林家の寺として独自路線を歩むことになり、永正6年(1509)には大徳寺から妙心寺が独立して、ともに足利将軍家が擁護する五山とは一線を画します。

その後、応仁の乱で大徳寺の伽藍は焼失し、これを再建したのが一休宗純でした。一休は後土御門天皇の勅を奉じて81歳で大徳寺の第47世の住持となります。彼は大徳寺に住むことはありませんでしたが、堺の豪商、尾和宗臨(おわそうりん)らの支援により、方丈や法堂を造営して中興しています。尾和宗臨は一休に参禅し、塔頭・真珠庵も建てています。

一休は後小松天皇の落胤といわれてきました。後小松天皇は南北朝が合一されたときの北朝の天皇ですが、一説に、母が南朝系の公家の娘であったため、一休(千菊丸)は6歳で寺に出され、周建(しゅうけん)と名付けられたといわれています。若くして知性に富み、15歳で漢詩の才能を開花させ、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり5年間修行して宗純を名乗ります。まもなく謙翁が寂すると、師を慕う一休は絶望して瀬田の唐橋から身を投げをしたあげく助けられたと伝えられています。

22歳のとき一休は堅田(近江)の禅興庵で大徳寺派の華叟宗曇(かそうそうどん)に入門しました。一休が大悟したとき華叟は大徳寺2世の徹翁義亨(てつおうぎこう)から伝わる印書を一休に授けようとしますが、一休はこれを破り捨てたといわれています。一休は、悟りは紙切れにあるのではないと印可を否定し、生涯弟子に与えることもありませんでした。

ひと所に定住せず、飲酒肉食女犯は当たり前、何事にも囚われない生き方に、茶人の村田珠光や、能作者・能役者の金春善竹(こんぱるぜんちく)、連歌師の宗長(そうちょう)、山崎宗鑑など多くの文化人が惹かれ、一休を慕い、教えを受けました。また浄土真宗の蓮如とも親交があったといわれています。晩年は盲目の森女を溺愛し、88歳で亡くなるまで寄り添っていたようです。権力を痛烈に批判し、自由奔放に生きる一休は自らを狂雲子と称し、風狂の僧と呼ばれました。難解な禅僧ですが、人から愛されました。

戦国時代末期の天正10年(1582)、豊臣秀吉は本能寺の変で没した織田信長の葬儀を大徳寺塔頭の総見院で執り行いました。これを機縁として大商人や茶人、大名らが外護者となり多くの塔頭ができ、大徳寺は隆盛します。

しかし、江戸時代になると徳川幕府は朝廷や寺社勢力を抑えるための法令を出して、大徳寺や妙心寺に圧力を加えます。慶長18年(1613)には「勅許紫衣之法度」を出し、また元和元年(1615)には「禁中並公家諸法度」を出して、天皇が紫衣の勅許を濫発することを戒め、勅許を出す前には幕府への事前申請が必要と定められました。ちなみに紫衣の勅許は朝廷の財源でもありました。

また、同年に出された寺院諸法度は南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)によって作成されたものでしたが、「大徳寺法度」と「妙心寺法度」には住持資格として、30年の修行に加え、1700則の公案を修めるなど、他宗にない厳しい条件を課す内容でした。

寛永2年(1625)、後水尾天皇はそんな法令を無視して十数人の大徳寺の僧と60人の妙心寺の僧に紫衣着用を勅許します。これを幕府が咎めて起こったのが寛永4年(1627)の紫衣事件でした。ときの将軍、徳川家光は京都所司代の板倉重宗を通じて大徳寺と妙心寺に対し、後水尾天皇が勅許した紫衣の着用をすべて無効とする旨を申し渡しています。

これに対し大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうがん)は3名連署で抗議し、妙心寺の単伝士印(たんでんしいん)、東源慧等(とうげんえとう)も抗弁書を提出します。とくに沢庵の抗議内容は、住持資格に関して理路整然と崇伝にあてつけたものだったといわれています。崇伝は、幕府を通じて江月を除く4名を流罪としました。このとき後水尾天皇は、朝廷に対する幕府の公然の圧力に反抗して、突然の譲位を決めたともいわれています。

沢庵は大燈国師を生涯の師とした気骨ある禅師でした。出羽上山(でわかみのやま)に流された沢庵を、領主であった土岐頼行(ときよりゆき)は手厚くもてなしています。沢庵のもとには方々の大名から衣類や食糧など多くの物資が届けられたともいわれています。しかし沢庵はこれらの物資を人に与え、自らは配所にて実に質素に丸3年を過ごしたそうです。

徳川秀忠が没し、崇伝も没して、家光により赦免された沢庵は、家光が創建した品川の東海寺に住まわされます。家光は沢庵にすこぶる傾倒し、相談役として沢庵をそばに置いたのでした。沢庵は紫衣事件の発端となった大徳寺法度の取り消しと、以前の寺法への旧復を幕府に認めさせるのと引き換えに、望んでもいない豊かな生活を送ることを余儀なくされました。沢庵はこの暮らしを、「つなぎ猿のように罷(まか)りなり迷惑致し候」と自嘲しましたが、寛永18年(1641)、沢庵の努力が実って大徳寺と妙心寺の寺法は旧に復し、住持らの紫衣も奪還されました。

京都 大徳寺の総門
総門
京都 大徳寺の南門
南門
京都 大徳寺の勅使門
勅使門
慶長18年(1613)頃建立の内裏西の唐門を寛永17年(1640)に移築したもの。
京都 大徳寺の山門(金毛閣)
山門(金毛閣)
5間3戸、二階二重門。下層は大永6年(1526)、上層は天正17年(1589)に造営された。上層に千利休像が安置される。
京都 大徳寺の仏殿
仏殿
文明11年(1479)に堺の豪商、尾和宗臨が一休宗純に請われて造営し、寛文5年(1665)に京都の豪商、那波屋常有(なはやじょうゆう)によって再建された。釈迦如来坐像が安置される。
京都 大徳寺の法堂
法堂(はっとう)
寛永13年(1636)に開山、大燈国師300年遠忌に際して再建されたもの。垣に囲まれてよく見えないが、大徳寺山内で最も大きな建造物。
京都 大徳寺の庫裡
庫裡
京都 大徳寺のイブキ
イブキ
仏殿再建時に植えられたというイブキ。長命な木で知られるがこれほど大木になるのは稀という。
京都 大徳寺境内の近衛家の廟所
近衛家の廟所
京都 大徳寺境内の平康頼の塔
平康頼の塔
鬼界島に流罪になったと伝わる平康頼(たいらのやすより)の供養塔。
京都 大徳寺境内の千体地蔵
千体地蔵
京都 大徳寺の塔頭・芳春院
芳春院
慶長13年(1608)、前田利家の妻、芳春院が玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開基として建立。
京都 大徳寺の塔頭・聚光院
聚光院
永禄9年(1566)に三好義継(みよしよしつぐ)が父、長慶(ながよし)の菩提を弔うために建立。
京都 大徳寺の塔頭・養徳院
養徳院
足利義満の弟、満詮(みつあきら)が前妻、妙雲院善室の供養のために祇園に建て、妙雲院と称したが、満詮の没後に満詮の法名である養徳院に改称された。 応仁の乱で焼け、大徳寺山内に再建された。
京都 大徳寺の塔頭・玉林院
玉林院
慶長3年(1598)に後陽成天皇の侍医であった曲直瀬正琳(まなせまさよし)が月岑宗印(げっしんそういん)を開山として建立。焼失後に片桐且元(かたぎりかつもと)が再建した。寛保元年(1741)に鴻池了瑛(こうのいけりょうえい)が祖先・山中鹿之助の位牌堂として「南明庵」を建て中興した。
京都 大徳寺の塔頭・徳禅寺
徳禅寺
南北朝時代に徹翁義亨(てっとうぎこう)により創建。
京都 大徳寺の塔頭・興臨院
興臨院
大永年間(1521-28)に畠山義総(はたけやまよしふさ)が小渓紹怤(しょうけいじょうふ)を開祖として建立、のちに焼失し、天正9年(1581)前田利家が再興して前田家の菩提寺となった。
京都 大徳寺の塔頭・正受院
正受院
天文年間(1532-55)に大徳寺93世の清庵宗胃(せいあんそうい)が開山となり創建。
京都 大徳寺の塔頭・大慈院
大慈院
天正13年(1585)、村上頼勝(義明)、山口弘定、大友宗麟の姉の見性院、織田信長の姉と伝わる安養院らが檀越となり創建されたという。境内にある泉仙(いずせん)では精進鉄鉢料理がいただける。泉仙について詳しくは公式サイトへ。

大徳寺と堺、千利休と金毛閣

勅使門の背後には朱塗りの「金毛閣」が建っています。千利休が切腹させられる原因となったといわれる山門です。この山門は造営当初は単層でした。一休の教えを受けた連歌師の宗長や大徳寺塔頭の真珠庵主らが奔走して寄付を募り、享禄2年(1529)に一階建ての山門が完成しました。

天正17年(1589)になり、千利休が2階部分を増築しました。その後この上層部分に利休の雪駄ばきの木像が安置されます。大徳寺が利休の山門造営の功を顕彰するためだったといわれています。しかしのちにこれが「大徳寺の山門をくぐる度に利休に踏みつけられる」と秀吉の怒りを買い、利休に切腹を言い渡した理由のひとつとされています。

千利休は堺の納屋衆の一家に生まれました。一説に、利休の祖父は田中千阿弥といわれ、千阿弥は足利義政の同朋衆のひとりで、応仁の乱のとき堺に落ちのびたという伝えがあります。堺の納屋衆はもともと魚問屋でしたが、対外貿易が始まって以降は舶来品などを収める倉庫業を営んで富を蓄えたといわれています。多くの舶来の文物に接したことで、利休は若くして真贋を見極める眼を養ったようです。利休は刀や脇差、書画の鑑定にも長じていました。また16歳のときすでに京都で朝茶の会を催したこともあったようです。

港町である堺は足利義満が遣明貿易を始めてから急速に発展し、豪商たちが会合衆を形成して実権を握り、自治を進めて豊かな自由都市を築いていきました。大徳寺と堺のつながりはすでに一休の時代から深まっていました。一休は何度も堺に巡遊して堺衆と交流をもちましたが、一休と反りの合わない兄弟子、養叟(ようそう)の弟子らも堺に入り込み、民衆の心を掴んでいました。

大永6年(1526)、大徳寺を退いた古嶽宗亘(こがくそうこう)が堺南荘で小庵を営み、南宗庵としました。古嶽宗亘のあと、弟子の大林宗套(だいりんそうとう)が南宗庵に入りますが、弘治3年(1557)に三好長慶が父の菩提所として大林宗套を開山に迎え、場所を移して南宗寺を創建します。以来、南宗寺に南宗庵から古嶽の法系である笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)、古渓宗陳(こけいそうちん)らが入り、やがて南宗寺から大徳寺の住職になるという慣例ができます。武野紹鷗(たけのじょうおう)や今井宗久、津田宗及、千利休といった堺の茶人も南宗寺に参禅し、大徳寺との結びつきをもちます。

一方、織田信長は足利義昭を奉じて入洛を果たすと、堺に二万貫もの矢銭(税金)を課して直轄地としました。茶の湯に熱を上げた信長は、名物狩りを行って名器を集め、茶の湯の天下三宗匠と称された今井宗久、津田宗及、千利休を茶頭に召します。秀吉の時代になると、利休が今井宗久や津田宗及よりも重用されました。秀吉は利休に指導を仰ぎ、茶湯を愛好するようになり、一方、利休は秀吉の側近となり、政治にも関与していきます。そしておそらくこれが仇となります。

天正19年(1591)2月28日、利休は自刃しました。利休の表向きの罪状は2つ。ひとつは先に述べた大徳寺山門の利休の木像。もうひとつは、利休が新しい道具に法外な値付けをして暴利を得ていたとするものでした。堺時代から利休と親しかった大徳寺の古渓宗陳(こけいそうちん)は、利休の木像の件で大徳寺に対して罪を問われたとき「すべて自分ひとりの責任だ。しかし山門を建立してくれた大檀那のためにしたことがなぜ悪いのだ」と決死の覚悟で抗弁したと伝えられています。この事件は石田三成が主導したともいわれますが、秀吉が利休に切腹をさせた本当の理由はわかっていません。

京都 大徳寺金毛閣
金毛閣
京都 大徳寺の塔頭・真珠庵
真珠庵
永享年間(1429-41)一休宗純を開祖として創建。応仁の乱で焼失後、延徳3年(1491)に尾和宗臨により再建。
京都 大徳寺の塔頭・総見院
総見院
天正10年(1582)、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために古渓宗陳(こけいそうちん)を開山にして建立。
京都 大徳寺の塔頭・総見院境内
総見院境内
京都 大徳寺の塔頭・黄梅院
黄梅院
天正16年(1588)に豊臣秀吉と小早川隆景が大徳寺112世の玉仲宗琇(ぎょくしゅうそうしゅう)に帰依、玉仲の師である春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)の塔所として建立。
京都 大徳寺の塔頭・黄梅院の参道
黄梅院の参道
京都 大徳寺の塔頭・三弦院
三弦院
天正14年(1586)、浅野幸長、石田三成、森忠政らにより春屋宗園を開祖に創建。沢庵宗彭(たくあんそうほう)や千宗旦(せんのそうたん)が修行したところ。
京都 大徳寺の塔頭・瑞雲軒
瑞雲軒

★常時公開の塔頭★ 
但し法要などで閉門の日もあり。詳細は各寺院にお問い合せを。

高桐院(こうとういん)

高桐院は慶長6年(1601)、細川忠興(三斎)が父、藤孝(幽斎)の菩提を弔うため建立した大徳寺塔頭。開山は忠興の叔父の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)。楓などの木々に覆われ苔むした石畳の参道といい、客殿から見る前庭といい、しっとりと美しい塔頭です。忠興とガラシャ夫人の墓とした石灯籠は、千利休の切腹後に忠興に形見として譲られたものです。

京都 大徳寺の塔頭・高桐院の風情ある参道 高桐院の参道
INFORMATION
住所 京都市北区紫野大徳寺73-1
電話 075-492-0068
拝観時間 9:00-16:30
拝観料 大人400円 中学生300円 小人200円
団体 大人360円 要予約
※↑2019/4確認時の情報です。

高桐院といえば禅刹の風情をたたえる敷石の参道がよく知られています。頭上を両側から木々が覆い、苔むした参道がつづきます。建物に入り、客殿から眺める前庭は、まるで縁側を額縁にした絵画のようで、しばらく見入ってしまいます。

高桐院は細川忠興が父、藤孝(幽斎)の菩提を弔うために建てられました。足利家の支流である細川家は南北朝時代から江戸時代にかけて栄えた武家の名門です。細川藤孝は、足利義昭(よしあき)に仕えたあと、信長、秀吉にも仕えました。文武両道に優れ、幽斎の雅号を持ちました。

藤孝の長男である忠興(三斎)は茶人としても有名で、利休を崇拝し、利休の7人の高弟(利休七哲)の1人に数えられています。利休が秀吉に蟄居を命じられたとき、諸大名の中で弟子の細川三斎と古田織部だけが利休を見送ったといわれています。茶室「松向軒(しょうこうけん)」は利休好みの茶室といわれ、北野大茶会で三斎が設けた茶席・松向庵を再現したものと伝えられています。

庭園の西側の一角に忠興とガラシャ夫人の墓があり石灯籠が祀られています。この鎌倉末期の石灯籠はもともと利休が所蔵していたもので、切腹に際して愛弟子であった三斎に贈ったものといわれています。秀吉がこの端正で気品ある石灯籠を譲ってくれと言ったところ、利休は燈篭の笠の部分を故意に欠けさせて断ったと伝えられています。

忠興の妻ガラシャは明智光秀の娘であり、熱心なキリシタンで、秀吉がキリスト教を禁止したのちに洗礼を受けています。本能寺の変後、藤孝と忠興は光秀につくことを拒否し、秀吉についたため、ガラシャは一時丹後の味土野(みどの)に隠棲しました。関ヶ原の戦いで忠興の留守中に大坂玉造の細川邸にいたガラシャは、石田三成側の軍に攻められ、人質になることを拒んで家老に自らを斬らせ命を絶ったといわれています。

拝観したとき、書院の意北軒には床の間に大燈国師直筆の「関」という字がかけられていました。「関」は生と死の境を意味するそうです。襖絵は狩野探幽の弟の永眞(えいしん)が描いたものです。

京都 大徳寺塔頭・高桐院の表門 高桐院の表門 京都 大徳寺塔頭・高桐院前庭 前庭 京都 大徳寺塔頭・高桐院茶室 松向軒 茶室 松向軒 京都 大徳寺塔頭・高桐院境内の細川忠興とガラシャの墓 忠興とガラシャの墓 京都 大徳寺塔頭・高桐院境内の蹲(つくばい) 蹲(つくばい) 京都 大徳寺塔頭・高桐院の書院、意北軒 書院 意北軒

大仙院(だいせんいん)

大仙院は永正6年(1509)に古岳宗亘(こがくそうこう・大聖国師)によって開かれた塔頭。見どころは書院の間から観る枯山水庭園で、蓬莱山や島々、滝から流れ落ちる水がやがて大河となる様子が狭い空間に悠々と表現されています。

京都 大徳寺塔頭・大仙院の山門 大仙院の山門
INFORMATION
住所 京都市北区紫野大徳寺54-1
電話 075-491-8346
拝観時間 3月-11月9:00-17:00
12月-2月9:00-16:30
拝観料 大人400円 中学生270円 小人200円
坐禅会など有。要問合せ。
公式サイト https://daisen-in.net/
※↑2019/4確認時の情報です。

大仙院は大徳寺の法系四派(北派、南派、龍泉派、真珠派)のうち北派の本庵で、大徳寺山内の北側に位置します。大仙院を開いた古岳宗亘(こがくそうこう)は近江の守護であった六角頼政の子で、のちに大聖国師の諡号を賜りました。

大仙院には、わが国最古の方丈建築と伝わる方丈や、相阿弥、狩野元信、之信らによって描かれた襖絵(現在は京都国立博物館蔵)など、室町期の貴重な文化財が伝えられています。見どころは、古岳宗亘の作庭と伝わる枯山水庭園で、室町時代の傑作と評されています。

書院の庭園は思わず「狭い」と感じるほどの空間に、蓬莱山から流れ出る滝や橋の下を流れる水、大河に浮かぶ宝船などが、石組みと白砂だけで表現されています。また方丈前庭の「南庭」は白砂と一対の清めの盛砂だけで大海が表されています。

京都 大徳寺塔頭・大仙院の玄関 玄関 京都 大徳寺塔頭・大仙院の鐘楼 鐘楼

龍源院(りょうげんいん)

大徳寺南派の本院である龍源院は大徳寺で最も古い寺院です。文亀2年(1502)に東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖とし、能登の領主、畠山義元が豊後の大友氏、周防の大内氏らの協力を得て創建しました。方丈を取り囲むように「一枝坦(いっしだん)」「竜吟庭(りょうぎんてい)」「東滴壺(とうてきこ)」などの庭園が配されています。

京都 大徳寺塔頭・龍源院の山門 龍源院の山門
INFORMATION
住所 京都市北区紫野大徳寺82-1
電話 075-491-7635
拝観時間 9:00-16:30
拝観料 大人350円
団体25名以上で50円割引。
※↑2019/4確認時の情報です。

龍源院の方丈と書院からなる本堂の周囲はすべて端正な庭園が作り込まれています。

本堂に入るとまず書院前に「こ沱底(こだてい・阿吽の庭)」が目に入ります。塀で仕切られた狭い方形の空間に白砂と敷石だけからなる庭。こ沱とは中国の河北省鎮州城にある臨済禅師の寺の南を流れる河の名だそうです。

方丈に足を運ぶと廊下に挟まれたごく狭い空間に日本最小の石庭といわれる「東滴壺(とうてきこ)」が姿を現します。板石から広がる丸い波紋は一滴の水が滴り落ちた様子で、これがやがて小川に、そして大河に、ついには大海へと流れることから、ただ一滴の大切さを表現しているといわれます。

方丈前庭は「一枝担(いっしだん)」と呼ばれます。奥に配した背の高い石組みは仙人が住むといわれる蓬莱山を表し、手前の苔山が亀島、右奥の石組みが鶴島、そして白砂が大海原を表現しています。余分なものを排し、神仙思想に説かれる蓬莱山の理想の世界が表現されているらしいです。

方丈の東(裏手)に回ると、こちらは白砂とは無縁の杉苔に覆われた龍吟庭があります。この杉苔が大海を表しているそうで、全く枯れていませんが、これも枯山水だそうです。ごろごろと一見無造作に見える石組みは陸地を表していて、なかでも中央に高く突出する岩が須弥山とされています。仏説によると、世界は九つの山と八つの海からなっていてその中心が須弥山なのだとか。また須弥山は誰もが本来備え持っている超絶対的な人格で、悟りの境地とされています。その手前に配された板石は遥拝石で、この理想に近づこうとする信心を表現しているそうです。

この庭は理屈抜きにいつまで眺めても飽きませんでした。隣にいた2人連れのフランス人女性も無言で長い時間見入っていられました。たまたまなのか訪れた日は、フランスからの単独の旅行者をあちこちで見かけました。

京都 大徳寺塔頭・龍源院の庭、こ沱底(こだてい)阿吽の石庭 こ沱底(こだてい) 阿吽の石庭 京都 大徳寺塔頭・龍源院の庭、東滴壺(とうてきこ) 東滴壺(とうてきこ) 京都 大徳寺塔頭・龍源院の庭、一枝担(いっしだん) 一枝担(いっしだん) 京都 大徳寺塔頭・龍源院の庭、龍吟庭(りょうぎんてい) 龍吟庭(りょうぎんてい)

瑞峯院(ずいほういん)

瑞峯院は天文4年(1535)にキリシタン大名で知られる大友宗麟が徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)を開山に、自身の菩提寺として建立した寺院です。見どころに、重森美玲氏作庭の独坐庭(どくざてい)、閑眠庭(かんみんてい)や、茶室・安勝軒があります。また、方丈、唐門、表門も創建当時の貴重な遺構です。

京都 大徳寺塔頭・瑞峯院(ずいほういん)の山門 瑞峯院の山門
INFORMATION
住所 京都市北区紫野大徳寺81
電話 075-491-1454
拝観時間 9:00-17:00
拝観料 大人400円 小人300円
大人団体30名以上で350円。
※↑2019/4確認時の情報です。

戦国時代から室町時代にかけて豊前豊後の大名であった大友義鎮(よししげ)が、出家して宗麟(そうりん)の法号を賜ったのは永禄5年(1562)のことでした。突然の出家は直前の門司城の戦いで毛利元就に完敗したからなどといわれています。瑞峯院の寺号は、徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)に帰依していた宗麟の法名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」から名付けられたといわれています。

そんな宗麟が改宗し、キリスト教の洗礼を受けたのは、それから16年後の天正6年(1578年)のことでした。しかし瑞峯院が建てられた天文4年(1551)には、既に宣教師のフランシスコ・ザビエルと会っており、鉄砲や医学などの西洋文明や海外貿易にも早い時期から関心があったとみられています。宗麟は改宗後、信仰により領内の神社仏閣を徹底して破壊・解体しています。そのころ遠く離れた瑞峯院のことは心の隅にあったのでしょうか。

瑞峯院には重森三怜による枯山水庭園の「独坐庭(どくざてい)」と「閑眠庭(かんみんてい)」があります。

独坐庭は蓬莱山式庭園で、大海と陸に打ち寄せる波を白砂で表し、その中央に蓬莱山の山岳が悠々独坐している様子を表しています。

閑眠庭は、一見するだけでは気づきませんが、キリシタン燈篭を中心に七個の石組み(縦に4個、横に3個)で十字架を表して、万民の霊を弔っているそうです。

茶室、安勝軒は大徳寺で唯一の逆勝手席(主人の左に客が座する)になっています。宗麟の時代に造られた安勝軒は享保年間に廃されましたが、現在のものは昭和初期にその軒号を受け継いで建てられました。

京都 大徳寺塔頭・瑞峯院の玄関 玄関 京都 大徳寺塔頭・瑞峯院の扁額 扁額 京都 大徳寺塔頭・瑞峯院の枯山水の庭 枯山水の庭 京都 大徳寺塔頭・瑞峯院の庭、閑眠庭 閑眠庭 京都 大徳寺塔頭・瑞峯院、逆勝手席の茶室・安勝軒(あんしょうけん) 安勝軒
関連メモ&周辺

雲林院
(うんりんいん)

大徳寺の境外塔頭、雲林院の山門 山門 大徳寺の境外塔頭、雲林院の観音堂 観音堂 大徳寺の境外塔頭、雲林院の地蔵堂 地蔵堂 大徳寺の境外塔頭、雲林院に祀られる弁才天 弁才天

雲林院は北大路通を挟んで大徳寺の向かいに建つ。紫野のこの地には淳和天皇によって造営された離宮・紫野院があった。淳和天皇崩御の貞観11年(869)に天台宗の僧正遍照を迎えて官寺・雲林院となった。かつては桜、紅葉の名所で『源氏物語』や『伊勢物語』、『大鏡』にも登場する。
観音堂が中心に祀られている。雲林院は観音信仰が盛んで菩提講に多くの人が集まったところでもある。鎌倉時代に再興され、大徳寺の塔頭となった。しかし応仁の乱で焼失して廃絶。江戸時代の宝永4年(1707)に寺号を踏襲して再建された。大徳寺の塔頭。

大徳寺納豆

煮た大豆を麹で発酵させ天日干しで乾燥させた大徳寺名物、大徳寺納豆
一休宗純が伝えたとされる大徳寺納豆。もとは中国から渡来した僧によって伝来したもので、糸引き納豆とも、甘納豆とも異なり、塩辛く芳醇な風味をもつ納豆。煮た大豆を麹菌で発酵させ、夏の間に天日干しにして乾燥させる(この間に黒くなる)。これは僧の修行の一部でもあったらしい。そのままお茶請けとして、また料理の調味料としても使える。

主な参考資料(著者敬称略):

『新版古寺巡礼 京都17 大徳寺』淡交社 /『禅宗の歴史』今枝愛真 吉川弘文館 /『別冊太陽 日本のこころ233 一休』芳澤勝弘 監修 平凡社 /『千利休』芳賀幸四郎 吉川弘文館 /

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