東本願寺
(ひがしほんがんじ)京都駅のすぐ北に建つ東本願寺。一方、西本願寺はその西の堀川通七条に建っています。いずれも元はひとつの「本願寺」でした。本願寺は信長との石山戦争の和議で、撤退を主張する顕如(けんにょ)派と抗戦を訴える教如(きょうにょ)派に分かれました。江戸時代、教如は徳川家康から寺地の寄進を受け、東本願寺が分立しました。
御影堂門
寺号 | 真宗本廟(浄土真宗大谷派) |
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住所 | 京都市下京区烏丸通七条上る |
電話 | 075-371-9181 |
アクセス | JR京都駅から徒歩7分、地下鉄「五条」から徒歩5分 市バス「烏丸七条」バス停から徒歩1分 |
拝観時間 | 3~10月 5:50-17:30 11~2月 6:20-16:30 |
拝観料 | 無料 飛地境内地 渉成園庭園(関連メモ&周辺参照): 大人500円以上、高校生以下250円以上の寄付金 |
公式サイト | http://www.higashihonganji.or.jp/ |
顕如と教如(きょうにょ)と東本願寺の分立
真宗大谷派の本山・東本願寺は、正式名称を「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」といい、本願寺12世の教如を開祖としています。
戦国時代、教如の父、本願寺11世の顕如(けんにょ)は戦国大名に匹敵する権力をもっていました。顕如の妻、如春尼(にょしゅんに)は三条公頼(さんじょうきんより)の娘で、細川晴元の猶子とされたあと、六角定頼の猶子となり、顕如と結婚しています。また、如春尼の2人の姉はそれぞれ細川晴元と武田信玄に嫁いでいました。さらに、顕如は九条家当主の猶子となり、永禄2年(1559)、本願寺は門跡に列せられました。顕如はその後、長男の教如に朝倉義景の娘を娶らせています。
一方、天下統一を目論む織田信長は、将軍・足利義昭を奉じて入洛し、近畿を制圧します。本願寺に対しても軍用金(矢銀)を要求すると、顕如はそれに従いました。しかしやがて将軍義昭と対立した信長は、義昭を京都から追放します。元亀元年(1570)、朝廷や反信長勢力と結ぶ本願寺顕如は「仏敵信長を討て。従わない者は破門する」と各地に檄文を飛ばし、石山合戦が始まりました。
天正8年(1580)、籠城で物資が乏しくなった本願寺は、朝廷の和議により信長との講和を果たします。顕如(けんにょ)は石山本願寺を退去し、紀伊国の鷺森(さぎのもり)へ下りました。しかしこのとき本願寺は講和を受け入れる顕如率いる退去派と、信長との徹底抗戦を訴える教如率いる籠城派との対立があったといわれています。一説に、教如は信長が講和条件を翻して襲撃してくると読んでいたため、抗戦継続を主張したとも。顕如の退去後も4ヵ月にわたり籠城を続けた教如を、顕如は義絶しました。
義絶された教如は流浪の2年間を過ごしたあと、信長が没すると、後陽成天皇が間に入り、顕如・教如父子は和解しています。その後、本願寺は鷺森から和泉貝塚へと移り、さらに豊臣秀吉に寺地を寄進されて大坂天満に移ったあと、天正19年(1591)に、秀吉の都市計画により七条坊門堀川に場所を移して建立されました。その翌年、顕如が亡くなると、教如が本願寺法主を継ぎました。
しかし翌文禄2年(1593)、秀吉は、教如と本願寺家老の下間頼廉(しもつまらいれん)と下間仲之(しもつまちゅうし)を大坂城に呼び出し、教如に対して信長への抗戦や女性問題など11ヵ条の非を示し、顕如が遺したとされる三男・准如(じゅんにょ)への譲状をもって、10年の在職後に准如へ法主の地位を譲るよう言い渡します。この内容に頼廉が抗弁すると、秀吉は怒りを顕わにして教如に即刻退隠するよう命じました。
退隠後、教如は「裏方」と呼ばれましたが、独自に法主としての活動を継続していました。大坂に難波別院を開いたり、末寺に下付する絵像類に教如自身が裏書を付けて免許としていました。これは法主の権限でなされる行為だといわれています。そして実際、近江や三河などでは、教如を支持する団体も数多くあったといわれています。
慶長3年(1598)に秀吉が没すると、教如は徳川家康と親交を深めていきました。慶長5年(1600)の関が原の合戦前には自ら下野に赴いて家康を見舞い、合戦後には大津城で家康を出迎えています。翌年には互いに訪問し合うまでになりました。そして慶長7年(1602)、家康は教如に対し、烏丸六条の四町四方の寺地を寄進し、幕命で上野国厩橋(うまやばし)の妙安寺に安置されていた親鸞木像が遷されて東本願寺が分立します。分立は、家康の側近・本多正信の発案とも考えられています。
火災後の再建に尽力した門徒の人々
東本願寺の創建当初、御影堂と阿弥陀堂の規模はそれほど大きくなかったといわれています。のちの明暦4年(1658)に再建された御影堂と、寛文10年(1670)に再建された阿弥陀堂は、現在のものとほぼ同じ大きさになり、単層だった屋根部分が重層に改めらました。つまり、その頃からこれほど巨大な建造物が建っていたのです。ところが東本願寺は江戸時代末期に4度も大きな火災で焼け、現在の伽藍の多くは明治28年(1895)に再建されたものです。
東本願寺には、再建の際に新潟から木材を運んだ大橇(おおぞり)と鼻橇(はなぞり)が展示されています。これらは、明治16年(1883)3月12日、新潟県の尾神獄で木材運搬中に雪崩に遭遇したときに使われていたものだそうです。死者27名、負傷者50名以上を出したという大変痛ましい事故でした。
大橇と並んで展示されているのが「毛綱」で、こちらも明治の再建時、建築用材を運ぶ際に用いられたものだとか。女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれた太さ30cm、長さ70mほどの毛綱が、全国の信徒から50本以上も寄進されたといわれています。巨大な木材を運ぶ際、引き綱が切れる事故が相次ぎ、より強い綱が必要となったためといわれています。
こうして再建がなった御影堂は間口76m、奥行き58m、高さ38mの規模をもつ、世界最大の木造建築です。二層に見える屋根の下部は裳階(もこし)で、巨大ながら和様の美しい建物です。これに対し、阿弥陀堂は禅宗様の仏堂で、御影堂の約半分の規模。それでも十分な広さです。両堂ともに入母屋造で、丸柱が特徴的です。ところで、意味があるのかないのか、西本願寺と東本願寺では御影堂と阿弥陀堂の配置が逆になっています。また内部の畳の向きまで異なるそうです。
東本願寺には親鸞の真筆による『教行信証』6巻(坂東本・国宝)が伝えられるほか、親鸞や蓮如による真筆の文書類や絵像、絵伝など、分立以前の文化財が数多く伝わっています。なお北区にある大谷大学は、江戸時代の寛文5年(1665)に東本願寺が創設した「学寮」を起源としています。ちなみに仏教哲学者の鈴木大拙(すずきだいせつ)は、大谷大学の教授として40年近く在任していました。