京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
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壬生寺

(みぶでら)

壬生寺といえば地蔵信仰と壬生狂言と新撰組です。壬生狂言は、鎌倉時代に円覚上人が行った融通大念仏法会が起源となり、現在まで地元の人々によって受け継がれています。また、新選組ゆかりの寺として、境内には隊士たちの供養塔などが建てられています。すぐ近くには隊士の屯所となった八木邸や旧前川邸があります。

壬生寺・本堂 本堂

INFORMATION
寺号 壬生寺(律宗)
住所 京都市中京区坊城仏光寺北入る
電話 075-841-3381
アクセス 市バス 3,8,11,13,特13,臨13,26,27,28,29,67,69,71,
特71,91,203系統「壬生寺道」下車徒歩3分
阪急電車「大宮」下車徒歩8分
京福電鉄「四条大宮」下車徒歩7分
拝観時間 境内参拝自由
壬生寺歴史資料室:8:30-16:30
拝観料 歴史資料室(阿弥陀堂地下1F):
大人200円 小中高生100円
壬生狂言 春の大念仏会(当日券自由席のみ):
日時:4月29日-5月5日 13:00-17:30
5月5日のみ夜の部あり(18:00-22:00)
鑑賞料:大人1000円 中高生500円
秋の特別公開(当日券自由席のみ):
日時:10月連休3日間 13:00-20:00
鑑賞料:大人1000円 中高生500円
節分の公開(11番「節分」のみ8回上演):
日時:節分前日と当日 13:00-20:00
毎時0分スタート 鑑賞料:無料
公式サイト http://www.mibudera.com/
※↑2019/4確認時の情報です。

700年以上にわたり伝承され続ける壬生狂言

現在は新しい堂宇に建て替えられていますが、壬生寺の創建は古く、正暦2年(991)、園城寺の快賢(かいけん)僧都によって建立されたといわれています。

創建当初、壬生寺は本尊に定朝作といわれる地蔵菩薩像を祀り、地蔵院(宝幢三昧寺とも)と呼ばれていました。もとは五条坊門壬生にあり、鎌倉時代の建保元年(1213)に、平宗平(たいらのむねひら)により現在の五条坊門坊城に遷されたといわれています。昭和37年(1962)の火災により、本堂や本尊の地蔵菩薩像ほか多くの信仰財を焼失した際、本山である奈良の唐招提寺から地蔵菩薩立像が迎えられました。それが現在の本尊で、平安初期に造像された現存する日本最古級の地蔵菩薩像といわれています。

中世に壬生寺を中興した円覚上人は律宗の僧でした。一方、壬生寺を創建した快賢は天台僧で、壬生寺は中世以降、天台宗と律宗兼学の寺となりましたが、創建から現在まで、宗の教義を説くというより、もっぱら地蔵信仰の寺であったといわれています。とくに壬生寺の本尊、延命地蔵菩薩は、安産、健康、長寿、知恵、金運、豊作など身近な現世利益を授けてくださる有り難いお地蔵さまで、皇室から庶民大衆にいたるまで篤く信仰されてきました。

京都は現在も地蔵信仰が浸透していて、地蔵盆が盛んな町です。夏の送り火の次の週末あたりはあちこちの町内の一角に提灯がさがり「お地蔵さん」を祀って子どもたちを遊ばせます。壬生寺には約3,000体の石仏が祀られていて、地蔵盆の時期に地蔵がない新興住宅地などに石仏がレンタルされています。これはいわゆる出開帳の一環らしいです。

円覚上人は鎌倉時代の貞応2年(1223)、大和の山辺郡服部郷(今の天理市)に生まれ、幼名を今若丸といいました。父が北条時氏(ほうじょうときうじ)に攻められて討死したので、今若丸は母により東大寺のそばに棄てられたといわれています。京都の梅本という富豪が春日大社に詣でたときに今若丸は拾われて育てられ、のちに東大寺に送られ沙弥戒を授けられました。18歳のとき菅原寺(すがわらでら)で法華経を写して父の菩提を弔い、唐招提寺に移って律宗を学んでいます。21歳のころ法隆寺に遊学し、奈良の霊山院(りょうぜんいん)で両部密教を授けられたと伝えられています。

円覚は、幼い頃に別れた母に会いたいと法隆寺夢殿に祈ったところ「願い叶えたくば融通念仏を称えて衆生を救え」と小童を通じて聖徳太子のお告げがあったそうです。勧進聖だった円覚は京に上って融通念仏を始めます。融通念仏とは平安時代に良忍(りょうにん)が始めた念仏で、ひとりと衆生の念仏が融通しあってすべての人を極楽往生に導くとされる教えでした。弘安2年(1279)、円覚は嵯峨清凉寺の境内に地蔵院を建立し、大念仏会を修します。清凉寺では母に会えませんでしたが、出会った僧に播磨に行けと言われ、播磨で母親と再会を果たしたといわれています。清凉寺は何かと母子にまつわる説話が多いお寺です。

弘安5年(1282)、円覚は法金剛院で融通大念仏会を修して勧進を行い、再興を果たしています。このとき集まった道俗は十万人に上ったといわれ、円覚上人は十万上人とも呼ばれました。後宇多天皇から上人号を賜ったのもこのときといわれています。

正安2年(1300)3月14日(旧暦)、天下に疫病が流行して朝廷は諸寺に疫病の鎮静を祈らせました。壬生寺では円覚上人が融通大念仏に加えて鎮花祭を行っています。花鎮め(はなしずめ)は桜の散る時期に疫病が流行るのでそれを祓う祭礼です。このとき、集まった大勢の人に声が届きそうにないので、円覚上人が身ぶり手ぶりでわかりやすく伝えたのが壬生狂言の始まりといわれています。このパフォーマンスが壬生狂言では「湯立て」や「棒振り」の演目に転じて今に伝えられています。

壬生狂言はせりふのない無言劇で、正式名は「壬生大念佛狂言」。すべての演者が仮面をつけ、鉦(かね)、太鼓、笛の囃子に合わせて演目を演じます。囃子は演目のあいだ終始なり続け、壬生狂言はその音にちなんで「壬生のカンデンデン」と通称されています。ちなみに、千本閻魔堂の念仏狂言はほとんどの演目でせりふがあり、こちらも面白いです。

壬生狂言は700年以上の間、戦時中も含めて途切れることなく受け継がれてきたといわれています。仮面や衣装、小道具なども、室町時代から現代のものまで数百点がお寺に伝えられているそうです。現在狂言はゴールデンウィークと10月の連休、そして節分に演じられます。役者さんは「壬生大念佛講」の人たちで、地元の小学生から年配の男性で構成されているそうですが、ふだんは会社員や自営業や学生のみなさんです。

一体どうやって稽古を積まれているのか、その芸の深さには驚くばかりです。なので壬生狂言は有料ですがとても人気があります。しかも当日券のみなので、早くから行列ができます。地元の人だけでなく遠方からも多くの人が観に来られます。とはいえ、これは興行ではなく、れっきとした宗教行事です。

春と秋の連日初演の出し物は『炮烙(ほうらく)割り』で、演目の最後に高く積まれた炮烙が一気に割られる瞬間は観ていてスカッとします。これらの炮烙の多くはその年の節分会の参拝のときに奉納されたもので、厄除け開運のご利益があるそうです。

また安政3年(1856)に再建された大念仏堂には、綱わたりの芸をする「獣台(けものだい)」や、鬼などが飛び込んで消える「飛び込み」などの特殊な舞台装置があり、これらを使った演目も見ものとなっています。なお、壬生狂言は昭和51年(1976)京都で最初の国の重要無形民族文化財に指定されています。

阿弥陀堂
阿弥陀堂
建保元年(1213)の創建、現在のものは平成14年(2002)の改築。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を祀る。
中院
中院
中院は壬生寺の塔頭で、古くは中之坊と呼ばれた。寛永年間(1624-43)、本良律師により創建。本尊に十一面観世音菩薩を祀る。洛陽33ヵ所観音霊場第28番札所。
本堂
本堂
千体仏塔
千体仏塔
パゴダのような仏塔には千体の石仏が積み上げられ、頂点に十三重石塔を戴く。これらの石仏は昭和に市電軌道が敷設されたとき各所から出土したもので、鎌倉時代から近世に造られた如来像、菩薩像、地蔵像、観音像など多種多様の像がある。
大念仏堂
大念仏堂
壬生狂言のポスター
壬生狂言のポスター
壬生狂言を観ようと並ぶ人々
壬生狂言を観ようと並ぶ人々
水掛地蔵堂
水掛地蔵堂
水を掛けて祈るとひとつだけ願いを叶えてもらえるという。一言地蔵とも言われる。
夜泣き地蔵
夜泣き地蔵
子どもの夜泣き、病気に霊験がある。
弁天堂
弁天堂
本尊の弁財天は清水寺の延命院から遷座されたもので、金運上昇、子孫繁栄のご利益がある。
三福川稲荷
三福川稲荷
商売繁盛、五穀成就のご利益がある。

幕末の京都を警備した「新選組」ゆかりの寺

壬生寺は新撰組ゆかりの寺でもあります。新選組の屯所となった八木家や旧前川家もすぐ近くにあり、隊士たちは壬生寺の境内を兵法調練場として、武芸や大砲の訓練などを行ったといわれています。

境内にある壬生塚には新選組の隊士を祀った塚や墓などがあり、これらは隊士の遺族らによって建てられたといわれています。また、近藤勇(こんどういさみ)の胸像の横には遺髪塔も建てられています。

幕末、開国を迫る各国の外国船が現れ、幕府の大老・井伊直弼は勅許を得ずに修好通商条約を結びました。それ以前から幕府の政治は弱体化し、民衆の不満は爆発して一揆や打ちこわしが各地で起こりました。各藩にも改革の機運が高まり、尊王思想と攘夷運動が結びついてひとつの流れをつくりました。

幕府は幕権回復のため公武合体政策を推し進めます。文久2年(1962)2月11日の和宮降嫁はそのひとつでした。しかし尊攘派の反発はいっそう激しさを増しました。

幕府は徳川家茂の上洛に備えて警護にあたらせる浪士を募ります。これは清河八郎の献策でしたが、じつは清河は尊攘派で、幕府に浪士を集めさせて攘夷を決行する策略をめぐらせていたといわれています。

文久3年2月、200人を超える浪士隊は京都を目指して出発しましたが、壬生に到着したとたん清河から聞かされたのは、朝廷に破約攘夷の建白書を認めてもらい、まずは横浜で異国人を討ち払うという計画でした。破約というのは修好通商条約の取り消しです。

これを聞いた浪士たちが困惑するなか、芹沢鴨、近藤勇ら13人は、当初の目的通り家茂警護のため京都に残留するといって、その場で清河派と別れました。しかし何の肩書きもない素浪人では、というので、黒谷の金戒光明寺にいた京都守護職の松平容保に願い出て、壬生浪士組(京都守護職預かり)が結成されます。これがのちの「新選組」です。

当初の筆頭局長であった芹沢鴨は水戸藩出身の浪士であったため、容保との面会が叶ったともいわれています。最初は水戸藩の流れをくむ芹沢派と試衛館(しえいかん)道場から出た近藤派が主要メンバーでした。壬生浪士組は八木源之丞(やぎげんのじょう)宅を屯所として市中の警備にあたりました。

ところが壬生浪士組には手当がつかなかったため、隊士たちは資金調達に奔走することになります。商家に対して脅迫まがいの態度に出たり、ネタを掴んでゆすったり、特に芹沢鴨に関しては酒ぐせも女ぐせも悪いと評判になり、とうとう粛清されてしまいます。暗殺したのは浪士組の近藤派といわれていますが、それは松平容保の内命だったとも。

剣豪が揃い、思想も個性もさまざまな組織であったため、内紛も多く、身内同士の暗殺も繰り返されました。やがて8月18日の政変、池田屋騒動、禁門の変などで手柄を立てて大所帯となった新選組は、西本願寺に屯所を移されます。

同じころ、京都守護職の会津藩から大砲2門が新撰組にもたらされ、その訓練を西本願寺の境内で行ったところ、門主から強い抗議を受け、京都奉行所の斡旋で壬生寺が訓練所となりました。隊士たちは壬生寺の参拝者を締め出し、禁じられていた馬での境内への乗り入れを行い、大砲を打ち続けることもあったといわれています。壬生寺は勅願寺であり、馬の乗り入れの禁制も出されていたにも関わらずです。結局、大砲の振動で境内の建物は破損し、参拝者も遠のいて、寺の人々は閉口したといわれています。

一方で、沖田総司が壬生寺の境内で子供たちと遊んだり、隊士たちが相撲を興行し、放生池の魚やすっぽんを料理して力士に振る舞ったり、壬生狂言を観たりした伝えもあります。隊士らのそんな一面をみれば、皆心やさしい若者です。幕府と運命をともにしたことで、その末路は悲惨でしたが、それぞれの信念に従って生きた人たちです。

鐘楼
鐘楼
宝篋印塔とお地蔵さま
宝篋印塔とお地蔵さま
一夜天神堂
一夜天神堂
菅原道真が配流になったとき、壬生の地に身内を訪ねて一夜の名残を惜しんだという伝承にちなむ。現在では、一夜にして知恵を授かる学業上達のご利益があるという。
橋を渡って壬生塚へ
橋を渡って壬生塚へ
壬生塚
壬生塚
人丸塚
人丸塚
壬生塚の中にあり、歌人、柿本人麻呂の灰塚と伝えられる。「人麻呂」が「人丸」に転じ、さらに「火止まる」に通じて火除けのご利益があるという。
近藤勇の胸像
近藤勇の胸像
新撰組隊士の墓塔
新撰組隊士の墓塔
関連メモ&周辺

八木邸

八木邸
壬生寺のすぐ北に位置する八木家は室町時代から400年以上続く壬生の郷士。文久3年(1963)、第11代八木源之丞(やぎげんのじょう)のとき壬生浪士組の屯所となった。芹沢鴨が暗殺された場所でもある。見学(ガイドつき)のあとお抹茶と和菓子が入り口の京都鶴屋でいただける。

旧前川邸

旧前川邸
坊城通を挟み八木邸の向かい側に位置する旧前川邸は、壬生の郷士・前川庄司の自邸だったところで新撰組屯所の旧跡。隊士が増え、八木邸が手狭になったためこちらにも分宿した。池田屋事件の前に、枡屋(ますや)の古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕らえて拷問したときの縄や、副長・山南敬助が切腹した部屋も残されている(非公開)。玄関先に案内板が設置され、土日祝日はギフトショップ(資料展示有)が営業される。

光縁寺
(こうえんじ)

光縁寺
姉小路大宮を西へ、ひと筋め角にある浄土宗・知恩院の末寺。本尊に阿弥陀如来を祀る。壬生を屯所にしていたころの新撰組の馬小屋が光縁寺門前近くにあり、隊士の往来は日常だった。当時の住職・良誉(りょうよ)上人は山南敬助と同年で、家紋も山南家と同じだった縁で親交があったと伝えられる。墓地には山南敬助やほかの隊士も埋葬されており、本堂には山南副長の位牌が祀られている。参拝可。たまたまですがご住職のおもしろいお話を聞かせていただきました。

主な参考資料(著者敬称略):

『壬生寺』貫主 松浦俊海 壬生寺 /『壬生狂言』壬生寺 編 淡交社 /『京都・幕末維新をゆく』木村幸比古 淡交社 /『京都新選組案内』武山峯久 創元社 /

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