京都御所
(きょうとごしょ)京都市の真ん中にある京都御苑は東西約700m、南北約1300mの広大な公園です。敷地内の京都御所の拝観は2016年夏から通常公開となりました。一般に解放されている公園部分を含めた京都御苑全体を俗に「御所」と呼びます。桜の名所でもあり、特に近衛邸跡の枝垂桜は有名です。
紫宸殿
名称 | 京都御苑 |
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住所 | 京都市上京区京都御苑 |
電話 | 宮内庁参観係:075-211-1215 京都御苑:075-211-6364 |
アクセス | 地下鉄「丸太町駅」または「今出川」下車すぐ 市バス 10,65,93,202,204系統「烏丸丸太町」または「裁判所前」下車 51,59,201,203系統「烏丸今出川」下車すぐ 3,4,17,37系統「府立医大病院前」下車徒歩7分 |
拝観 | 御苑自由。施設利用は京都御苑の 公式サイト へ |
京都御所 参観 |
申込不要の参観日/休止日 公式サイトにカレンダーあり。無料 案内付の参観:宮内庁公式Webサイト参照のこと |
仙洞御所 参観 |
無料(要申込) 宮内庁 公式サイト 参照のこと |
公式サイト |
〔京都御所〕
https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html 〔京都御苑〕 https://fng.or.jp/kyoto/ |
市民や学生たちの憩いの広場・京都御苑
まだほんの幼い頃、親に連れられてよく御所(京都御苑)に遊びに行った記憶があります。曖昧ですが、開放されていた区画も今より広かったような気がします(小さかったからそう感じたかも?)。植栽の空いたところにビニルシートを広げ、ボール遊びやおもちゃのバドミントンをやっていました。今も御所(京都御苑)は市民の憩いの広場であり、サラリーマンや学生や旅行者の休息の場所でもあります。
京都御苑は、京都御所、大宮御所、仙洞御所をとり巻く外苑を指し、東西に約700m、南北に約1,300mの広大な敷地を有します。江戸時代には200ほどの宮家や公家の邸宅が建っていたといわれています。現在は京都御所、仙洞御所、大宮御所のみが宮内省の管轄で、御苑は(財)国民公園協会の管轄です。運動広場にはテニスコートやゲートボール場もあり、申し込めば利用できます。
明治2年(1869)に明治天皇が東行になられたとき、多くの公家も東京に移住したのに伴い、塀をつらねた旧宅群は取り払われて整備されました。御所の北西には五摂家のひとつであった近衛家の邸宅跡があり、毎年春になると跡地一帯に植えられた枝垂桜が美しく咲き誇ります。そのすぐ東側の池のほとりも古くからの名所で、孝明天皇は「昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな」と愛でたことで知られます。
また御苑の南には五摂家のひとつであった九条家の茶室、拾翠亭(しゅうすいてい)があります。これは九条家の現存する唯一の遺構で、数寄屋造りの2階建てになっており、江戸後期に建てられたものといわれています。茶室の参観や茶会等の利用も可能です。
拾翠亭の前は東山を借景に取り入れた池泉回遊式の庭園となっていて自由に散策できます。池はその形から「勾玉池」とも呼ばれ、真ん中に明治15年完成の高倉橋が架かります。橋脚は三条大橋と五条大橋のものが利用されました。
この池の中島に厳島神社が鎮座しています。社伝によれば、平清盛が兵庫の築島に勧請した神を、足利義晴がこの地に遷したといわれています。市杵島姫命(いちきしまひめ)、田心姫命(たぎりひめ)、湍津姫命(たぎつひめ)と祇園女御が祀られています。池に面する石鳥居は、寺の玄関を思わせる唐破風の形をしていて、京都三珍鳥居のひとつに数えられています(あとの2つは木島神社の三柱鳥居と北野天満宮・伴氏社の鳥居)。
外苑には9つの門があります。歴史的に有名なのが、烏丸通に面した蛤御門(はまぐりごもん)です。正式名称は新在家御門(しんざいけごもん)。天明8年(1788)の天明の大火で御所が炎上したとき、滅多に開くことのなかった門が火にあぶられて開いたため、蛤になぞらえて「蛤御門」と呼ばれるようになりました。元治元年(1864)7月の禁門の変で長州軍が攻め入り、迎え撃った京都守護職の会津藩、桑名藩、薩摩藩との激戦の場所となりました。門には砲弾の跡?らしきものが残っています。
ところで、御所の築地の北東角には「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ばれる場所があります。北東は陰陽道で艮(うしとら)の方位になり鬼門にあたるため、築地の角が直角になるのを避け意図的に凹ませてあるそうです。またこの塀の軒下の蟇股に木彫りの猿が置かれていますが、鬼門と正反対の方位に位置する申(さる)で鬼門が封じられています。さらにその猿は御幣を担がされいて、周到な鬼門対策がみられますが、時々飛び出して悪さをする、というので軒下に閉じ込められています。同じような例が修学院の赤山禅院にもみられます。
またここは、文久3年(1863)5月20日の深夜に尊攘派の公家、姉小路近知(あねやこうじきんとも)が幕府の刺客に襲われた「猿ヶ辻の変」が起こった場所でもあります。
京都御所の参観
京都御所は京都御苑の中にあり、築地に囲まれた面積約11万平方メートルの敷地に建っています。平安京造営当時の内裏は現在地より西方の千本丸太町付近に位置していましたが、火災と再建を繰り返し、院政期以降、天皇は里内裏に住まわれるようになりました。里内裏とは内裏が火事などの災害に遭ったときの仮皇居で、貴族の邸宅などが使用されていました。
南北朝時代の元弘元年(1331)、光厳天皇の即位のとき、里内裏のひとつであった東洞院土御門内裏(ひがしのとういんつちみかどだいり)が北朝の正式の皇居となりました。以後焼失と再建を繰り返し、明治2年(1869)の東京遷都までの約540年の間、この場所が内裏・皇居として現在まで受け継がれてきました。
戦国時代に荒廃した内裏の大修理を行ったのは織田信長で、豊臣秀吉も天正18年(1590)に前田玄以を奉行として、紫宸殿、清涼殿、小御所、御常御殿などの殿舎を新造しています。徳川家康は後水尾天皇に孫娘の和子を入内させたこともあり、大々的な増改築を行いました。その際、秀吉が造営した紫宸殿や清涼殿などの建物は、泉湧寺や仁和寺や南禅寺などへ下賜され、さらに建礼門が新設されました。
しかしそれも天明8年(1788)の大火で焼失したため、寛政2年(1790)、徳川幕府は松平定信を総奉行として、有職故実学者の裏松固禅(うらまつこぜん)を登用し、平安京内裏の様式に復古して再建しています。現在の内裏は安政2年(1855)の再建によるもので、寛政時に復古された様式が踏襲されています。
御所の敷地の南側に紫宸殿を中心とした重要な御殿が配置されています。その北側に天皇の住まいがあり、さらにその北には皇后の住まいと、女性や子供たちの住居があります。
参観は約50分のコースで、6つある御所の門のうちの清所門(せいしょもん)から入ります。切妻・平入、瓦葺きの簡素な通用門です。門を入ると御車寄(おくるまよせ)に続いて諸大夫(しょだいぶ)の間があります。諸大夫の間は正式に参内した者の控えの間で、諸大夫の間、殿上人の間、公卿の間の3つの部屋があり、身分に応じて分かれて控えたといわれています。
紫宸殿(ししんでん)へは回廊につづく承明門の前を通って向かいます。承明門は朱塗りの柱と白壁、瓦屋根からなる十二脚門。承明門のさらに南に建礼門があり、紫宸殿に対して二重の門になっています。建礼門は一番格式が高い正門で、現在は天皇と外国の元首のみに開かれます。切妻、檜皮葺、平入の四脚門です。
嵯峨天皇の命名による紫宸殿は、天皇に拝する朝賀の儀式や皇位継承の儀式が執り行われたもっとも格式の高い正殿です。天守が南面して国を治めたという中国の故事にならい、南面して建っています。檜皮葺、寝殿造の巨大かつ清楚で格調高い建物。内部の中央に身舎(もや)があり、さらにその中央に天皇の御座である高御座(たかみくら)と、向かって右に皇后の御座である御帳題(みちょうだい)があります。
前庭には儀式の場である白砂の南庭(だんてい)が広がり、東側に左近の桜、西側に右近の橘が植えられています。左近の桜はもとは梅でしたが、9世紀前半、仁明天皇の時代に桜に代わったそうです。右近の橘は内裏造営の際に、旧地の大内裏にあった秦河勝の邸宅の橘が植えられたと伝えられています。御所が現在の場所に遷ったのちも、この例にならって橘が植えられました。
寝殿造の清涼殿は、平安時代、天皇が日常の生活の場として使用された御殿でしたが、のちに主として儀式に使われるようになったそうです。身舎(もや)の御座である御帳題(みちょうだい)は天皇の休息時に使われたもの。建物は美しいのですが、内部は質素で現代人がここで生活するのはかなり難しいと感じます。
江戸時代に新設された小御所(こごしょ)は諸々の儀式や将軍・諸大名との対面に使われた建物で、寝殿造と書院造の混合様式になっています。慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられ、「小御所会議」が行われたのがこの場所です。この会議で徳川慶喜(よしのぶ)の辞職と徳川家領の削封が決定されました。小御所の前は御池庭(おいけにわ)と呼ばれる池泉回遊式庭園が広がっています。元和5年(1619)の拡張工事の際、小堀遠州が御殿造営とこの御池庭の修造にかかわったといわれています。
小御所(こごしょ)につづく御学問所(おがくもんじょ)も江戸時代に造られた殿舎で、親王宣下や謁見、御読書始めの儀、和歌の会などに使用されました。江戸時代ならではの居住性にすぐれた書院造の建物です。
さらに北側に行くと御常御殿(おつねごてん)があります。御常御殿は、室町時代から天皇が東遷された明治初期まで天皇の住まいだったところで、畳敷きの書院造、大小15の間からなります。現在の御常御殿は孝明天皇と明治天皇がお使いになったものです。
御常御殿の前には雄大な御池庭とは対照的な、清雅でこじんまりとした御内庭(ごないてい)があります。「流れの庭」とも呼ばれ、築山や深い苔から覗く飛び石、水の流れに沿って架かる小さな橋や花の植え込みなどがリズミカルに配され、奥に茶室があります。御常御殿から渡り廊下で結ばれた迎春(こうしゅん)は、孝明天皇の御書見の間(ごしょけんのま)であったところで、その先には天皇が納涼された御涼所(おすずみしょ)があります。