京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
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鹿王院

(ろくおういん)

鹿王院は、足利義満が建立した宝幢寺(ほうどうじ)の境内に、夢窓疎石の高弟、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の塔所として建てられた寺院です。宝幢寺が焼失したあと、鹿王院だけが残りました。清楚な境内には、旅人がホッとできる空間がひろがっています。

京都 鹿王院、客殿前の庭園と駄都殿(舎利殿) 客殿前の庭園と駄都殿(舎利殿)

INFORMATION
山号・寺号 覚雄山 鹿王院(臨済宗系単立)
住所 京都市右京区嵯峨北堀町24
電話 075-861-1645
アクセス 京福電車 嵐山線「鹿王院」下車徒歩3分
市バス 11系統「下嵯峨」下車徒歩3分
京都バス 62,63,66,72,73,76,77,83系統
「下嵯峨」下車徒歩3分
JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車徒歩10分
拝観時間 9:00-17:00
拝観料 大人400円 小・中学生200円
※↑2019/4確認時の情報です。

夢窓疎石の後継者、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)という人

総門をくぐると手入れの行き届いた長い参道が中門まで続いています。両脇を木立が覆い、静寂に包まれます。

鹿王院は、足利義満が建てた宝幢寺(ほうどうじ)の敷地に、義満が師とした春屋妙葩の開山塔として建てられた寺院です。室町時代の康暦元年(1379)、足利義満は夢の中で「そなたは今年必ず大病を患う。もし寺を建て、大福田と名づけ、宝幢菩薩、観音大士、多聞天を奉安すれば延命でき、福を増すであろう」と異人に告げられ、宝幢寺の建立を決心したといわれています(『普明国師行業実録』)。

同じような話は『大福田宝幢寺鹿王院記』にもみられ、ここでは夢の中の異人は多聞天王と地蔵菩薩として登場します。このとき義満は22歳。夢告をうけて建立された寺は、当初、興聖寺と呼ばれ、のちに覚雄山大福田宝幢寺と改められました。宝幢寺は、京都五山の下の十刹中、五位の地位を与えられ、各地に多くの寺領をもちました。

宝幢寺の開山は、夢窓疎石(むそうそせき)の甥にあたる春屋妙葩(普明国師)です。寺域内に建てられた開山堂のまわりに野鹿が群をなして現れたので、鹿王院と名づけられたといわれています。その後本寺である宝幢寺は応仁の乱で焼失し、鹿王院だけが再興されました。

春屋妙葩は応永元年(1311)に甲斐国に生まれました。幼少のころから神童と呼ばれ、母は早くから夢窓疎石にその将来を託すことを決めていたそうです。7歳のとき、美濃にいた夢窓について修学を始め、15歳で出家得度し、夢窓が後醍醐天皇の招請をうけて南禅寺住持となると、妙葩は夢窓に随って上洛、元翁本元(げんのうほんげん)の侍者になりました。

嘉暦2年(1327)、夢窓が鎌倉の浄智寺に移ると妙葩も鎌倉へ行き、瑞泉寺で修行を続けます。当時は討幕を目論む大覚寺統の後醍醐天皇と、鎌倉政権、そして後醍醐が対抗する持明院統も絡んで政情はすこぶる不安定でした。妙葩の師である夢窓の名声は天下に響いていて、朝幕どちらからも招かれる存在でした。幕府が滅んだあとの建武元年(1334)、再び夢窓が南禅寺に入るとその翌年に妙葩も入洛し、建武3年(1336)には南禅寺住持の清拙正澄(せいせつしょうちょう)についています。

暦応2年(1339)、後醍醐天皇が没すると、その菩提を弔うため、夢窓は足利尊氏・直義に天龍寺創建を勧め、自らは開山となります。妙葩も天龍寺造営を助け、康永4年(1345)の開堂の儀では維那(ゆいな)を勤めています。禅寺において維那は寺務に携わったり、法会に際して経巻の読誦を先導する役割があるそうです。妙葩は音声和雅と称される美声の持ち主でした。またこの年、妙葩は夢窓との問答でついに認められ、「春屋」の道号と夢窓の法衣を授けられています。春屋妙葩35歳、遅咲きでしたが名実ともに夢窓の後継者として認められたのでした。

夢窓が示寂したあと、貞治2年(1363)に春屋は後光厳天皇の綸旨をうけて天龍寺の住持となり、夢窓派の発展に力を注ぎます。常に自分よりも先師を立て、謙虚なイメージのある春屋ですが、実は幅広い教養と人脈をもつ、多才で有能な人物でした。それは語学や文学、出版事業などにもみられますが、とくに造寺勧進事業に並外れた才能をもち、各方面から寄進を集め、工事を指揮して、再三にわたり焼失した天龍寺の復興や、臨川寺の再興を遂げました。またのちに聖一派の東福寺に通天橋を架けたり、相国寺造営にも手腕を発揮しています。

朝野からの春屋に対する帰依も厚く、後光厳天皇や後円融天皇、足利将軍家、管領の細川頼之をはじめ、足利直義の室(渋川頼子)や洞院公賢(とういんきんかた)の娘、真当尼といった公武諸家の女性らも春屋に帰依していました。

貞治5年(1366)、後光厳天皇は春屋に南禅寺の伽藍造営を命じました。しかしその山門建設をめぐって事件が勃発します。園城寺や延暦寺が反対して訴えを起こし、細川頼之が延暦寺に譲歩して朝廷に上奏、三門は破却されてしまいました。これがもとで春屋と頼之の関係は悪化します。夢窓派内部も分裂し、春屋は丹後余部の雲門寺に9年間隠棲しました。しかし隠棲中にも春屋は鎌倉の義堂周信と書簡でやり取りをしたり、大内領に滞在する明国使に使者を送って外交に努めるほか、詩文に磨きをかけるなど、充実した日々を過ごしたようです。

康暦元年(1379)4月14日、細川頼之が失脚し、斯波義将(しばよしゆき)が管領について将軍足利義満が実権を握ると、その翌日に春屋が上洛しています。この政変と春屋の上洛は事前に用意ができていたようです。まもなく春屋は南禅寺住持となり、次いで僧録にも任じられて全国の禅宗寺院を統括します。同じ年の冬、春屋は帰依を受けていた後円融天皇に授衣した際、天皇から「智覚普明国師」の号を贈られ、「僧中の龍、法中の王者なり」と讃えられています。足利義満が宝幢寺建立を決心したのはそのころで、春屋は69歳でした。

春屋は丹後に隠棲する以前、天龍寺金剛院、嵯峨持地院、嵯峨勝光庵の3院を私的に管領して春屋門派の活動を行っていました。春屋は夢窓派の長として各地から寄進される所領のほとんどを金剛院に組み入れていましたが、宝幢寺および鹿王院の建立が決まると、それらの所領の大半を今度は宝幢寺と鹿王院に割り当て、その運営基盤を固めています。そしてそれと同時に金剛院にかわって鹿王院が春屋門派の活動拠点となりました。

永徳2年(1382)、宝幢寺造営に平行して、義満は相国寺建立を思い立ち、春屋を開山に懇請しました。春屋は固辞し、夢窓疎石を勧請開山として自らは相国寺2世住持となります。このころから春屋は体調を崩しがちになります。至徳元年(1384)、相国寺仏殿が完成し、翌至徳2年(1385)には宝幢寺仏殿も完成、春屋はその寺格を十殺中五位に昇らせることに成功しました。またこの年、春屋は『鹿王院遺訓』を著して、鹿王院のその後の運営を定めています。翌年、春屋は相国寺退山を表明し、嘉慶元年(1387)、病により鹿王院に移り、その翌年の8月13日に78歳で遷化しました。

その後宝幢寺は、歴代足利将軍家の外護と、莫大な寺領や多数の末寺を得て隆盛しますが、応仁の乱で焼け、鹿王院だけが再建されました。しかし文禄5年(1596)、今度は伏見大地震で倒壊してしまいます。江戸時代になり再興したのは鹿王院12世住持の虎岑玄竹(こしんげんちく)で、それを支援したのは旗本の酒井忠知と、忠知の本家である出羽庄内藩酒井家やその縁者、さらに酒井家と関係の深かった膳所藩本多家でした。なお、虎岑玄竹は酒井忠知の五男であり、忠知は家康の第一の家臣とよばれた酒井忠次の五男です。

現在の伽藍のほとんどは江戸期に再興されたもので、切妻造、本瓦葺の山門だけは南北朝時代の創建時に近い時期のものといわれています。本堂は延宝4年(1676)の建立とされ、方三間の寄棟造、桟瓦葺。運慶作と伝わる本尊の釈迦如来坐像と十大弟子をはじめ、普明国師(春屋妙葩)像、足利義満像、虎岑和尚像などが安置されています。釈迦如来坐像と十大弟子は応仁の乱のとき等持院に避難しますが、十大弟子の一体が行方不明になり、その数年後に栂ノ尾の閻魔堂から戻ったといわれています。

舎利殿には源実朝が宋から請来した仏牙舎利が安置されています。舎利殿前の庭園は枯山水ですが、石組は控えめに配され、白砂は敷かれていません。嵐山を借景し、美しいスギゴケに覆われた伸びやかな庭で、客殿の広縁に座って眺めていると時間がたつのを忘れそうになります。なお、鹿王院は女性にかぎり宿坊が利用できます。

山門
山門
京都 鹿王院に掲げられる義満の筆による覚雄山の扁額
義満の筆による覚雄山の扁額
京都 鹿王院の参道
参道
京都 鹿王院の中門
中門
京都 鹿王院の庫裡の前庭
庫裡の前庭
京都 鹿王院の式台前の庭
式台前の庭
京都 鹿王院、庫裡に祀られる韋駄天(いだてん)像
庫裡に祀られる韋駄天(いだてん)像
義満の筆による鹿王院の扁額
義満の筆による鹿王院の扁額
京都 鹿王院の客殿
客殿
京都 鹿王院の舎利殿(駄都殿)
舎利殿(駄都殿)
京都 鹿王院境内の三社明神
三社明神
京都 鹿王院境内の稲荷社
稲荷社
京都 鹿王院参道脇の竹林(冬)
参道脇の竹林(冬)
京都 鹿王院、冬景色の庫裡
冬景色の庫裡
京都 鹿王院、雪の舎利殿
雪の舎利殿
京都 鹿王院、雪の中庭と歩廊
雪の中庭と歩廊
関連メモ&周辺

舎利殿
(しゃりでん)

京都 鹿王院、雪化粧の舎利殿 雪化粧の舎利殿 京都 鹿王院舎利殿の仏牙舎利を納める多宝塔 仏牙舎利を納める多宝塔 京都 鹿王院舎利殿の涅槃図 涅槃図

駄都殿(だとでん)とも呼ばれる舎利殿には、源実朝が宋の都臨安(杭州)の能仁寺から請来した仏牙舎利(釈迦の歯)が奉安されている。当初、仏牙舎利は鎌倉大慈寺をへて円覚寺に奉安され、南北朝時代に後光厳天皇がその一部を京都に献じさせて、応安7年(1374)に春屋妙葩に下賜されたという。宋から博多に仏牙舎利が着いた10月15日にちなみ、鹿王院では毎年10月15日に開扉供養が行われる。
たまたまなのか、舎利殿が公開されていた。中に入るとすぐ目の前に大きな涅槃図の掛け軸が下がっている。由緒などは不明。お堂の中央部に多宝塔があり、仏牙舎利はその中の水晶の玉の中に奉安されているらしい。きらびやかな多宝塔の四方には四天王が安置され、お堂の壁面には十六羅漢像を描いた掛け軸がかけられている。
源実朝は夢の中で自分が中国律宗の祖、南山道宣の再来であると告げられたため、道宣が開いた能仁寺の仏牙舎利を再三懇請してやっと目的を遂げたといわれている。 この仏牙舎利には以下のような言い伝えがある。
釈迦が荼毘に伏されたとき、帝釈天に授ける約束だった仏牙を捷疾羅刹(しょうせつらせつ)という鬼が盗んで飛んでいった。これを多聞天が打ち落として取り戻し、隋の時代に北天竺の太子、張瓊(ちょうけい)が道宣に与え、道宣は能仁寺に奉安したという。

主な参考資料(著者敬称略):

『普明国師と鹿王院』樋口実堂 鹿王院文庫/『鹿王院文書の研究』鹿王院文書研究会編 思文閣出版/

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