京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。
新型コロナ禍以降、多くの施設や交通機関でスケジュール等に流動的な変更が出ています。お出かけの際は必ず最新情報をご確認ください。

月読神社

(つきよみじんじゃ)

松尾大社の赤鳥居から南へ道なりに数分歩くと月読神社が右手に見えてきます。月読神社には壱岐から勧請されたという月の神が静かに鎮座しています。京都最古の神社のひとつで、のちに松尾大社の境外摂社となりました。

静寂につつまれる京都・月読神社の鳥居 月読神社の鳥居

INFORMATION
社名・社号 月読神社
住所 京都市西京区松室山添町15
電話 075-394-6263
アクセス 阪急電車嵐山線「松尾大社」下車
松尾大社から南へ400m
市バス 28,29系統「松尾大社前」下車徒歩5分
3,67,71,特71系統「松尾橋」下車徒歩13分
京都バス 63,73,83系統「松尾大社前」下車徒歩13分
(松尾大社から南へ350m)
参拝 自由
公式サイト http://www.matsunoo.or.jp/tukiyomi/index/
※↑2024年6月更新

桂の里に呼ばれた壱岐の月神

古代、壱岐や対馬では亀卜(きぼく)といわれる卜占(ぼくせん)が盛んであったといわれます。焼いたウミガメの甲羅のひび割れ具合で占うというものです。朝廷は優秀な卜部(うらべ)を宮中の神官に選び、天皇の玉体や国家の行く末を占っていたそうです。一方、壱岐や対馬は、朝鮮半島や大陸を結ぶ海上交通の要衝であり、国家にとって重要な拠点でした。

月読神社の創祀は、顕宗天皇3年(推定487)2月に阿閉臣事代(あへのおみのことしろ)が朝廷の遣いで任那(みまな)へ赴く途中、壱岐で月神が人に憑りつき託宣を受けたことに始まるとされています(『書紀』顕宗紀)。阿閉臣事代が帰朝して伝えた内容は次のようなものでした。「我が祖、高皇産霊(たかみむすひ)は天地を創造した功績がある。我は月神。宜しく我に土地を奉れば福慶があるであろう」。

これを受けて朝廷は、山代国葛野の歌荒樔田(うたあらすだ)の地を献上し、壱岐から押見宿禰(おしみのすくね)を呼びよせ、天月神命(あめのつきがみのみこと)を勧請して祀ったといわれています。

またその2ヵ月後にも阿閉臣事代に日神が憑って、磐余(イワレ)の田を祖先の高皇産霊尊に献上するよう神託があり、朝廷は田14町を献上して対馬下県直(つしまのしもあがたのあたい)に祠を祀らせたとされます。

月読神社の祠官の押見宿禰は壱岐の月神の末裔といわれ、その子孫は代々葛野の月読神社に仕えて壱岐氏を名乗り、卜占という聖職に携わったため、のちに卜部(うらべ)氏を名乗るようになったといわれています。一方、元祖月読神社を奉祭する壱岐島の壱岐氏はのちに島造に任じられ、その後、直(あたい)の姓を賜って壱岐直を称し、その祖は真根子とされています。壱岐氏は、伊岐氏、伊吉氏、壱伎氏とも書かれます。欽明天皇の御世に大飢饉が起きたとき、賀茂の神の祟りと占った伊吉若日子(いきのわかひこ)は、押見宿禰(おしみのすくね)の3世孫とされていて、月読神社の創祀の古さが窺えます。

その天月神命が山代国で最初に祀られた歌荒樔田(うたあらすだ)とはどこを指すのか明らかではありませんが、桂川のほとり、桂上野あたりではないかとみられています。また宇太村や有栖川の流域をあげる説もあります。

桂上野は上桂ですが、桂とよばれる地域は桂川に沿ってずっと南にも伸びています。『山城国風土記』逸文には「月読尊、天照大神の勅を受け、豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)に降りて、保食神(うけもちのかみ)のもとに至りましき。時に、ひとつの湯津桂の樹あり。月読尊、すなわちその樹によりて立たしましき。その樹のあるところ、今、桂の里となづく」とあります。

湯津桂(ゆつかつら)は、彦火火出見尊(ひこほほでみ・山幸彦)が海神(わたつみ)の宮に行って豊玉姫と出会ったとき、井戸のそばにあった樹です。豊葦原中国は海神たちの国で、海神たちが聖なる樹と崇めたのが桂の樹でした。保食神もおそらく海神でしょう。

桂の木は切っても切ってもすぐに枝が出て太く成長するため、不老不死の霊力をもつと信じられ、桂の里も不老長寿の仙境とみられていたといわれています。唐代に流行した月宮鏡の鏡背には、ガマガエルが桂の木に登り、木の傍らでうさぎが杵と臼を使って仙薬をつくり、反対側には仙女が不老長寿の薬をもち、羽をひるがえして翔んでいるようすが描かれています。月は満ち欠けを繰り返すことから、月と桂が結びついて不老不死やよみがえりの象徴と信じられていました。平安中期、月の神が宿る桂の里に憧れて、藤原道長や藤原経国が山荘を築き、その伝統のもと、江戸時代に八条宮智仁親王(はちじょうのみやともひとしんのう)によって桂離宮が建てられました。

ところで、最初に月読神社が鎮座した歌荒樔田は川岸に近く、たびたび水害に遭ったため、斉衡3年(856)に現在の松室の地に遷されたといわれています。またそれ以降の祠官は卜部氏から松室氏を名乗ったそうです。なお系譜上、壱岐卜部氏と中臣氏は同祖とされています。

『旧事紀』国造本紀では、伊吉嶋造の祖は天津水凝(あまつみずこり)の後裔の上毛布直(かみつけぬのあたい)とされ、津嶋県直は高魂尊の5世孫の建弥己己命を改めて直にしたと書かれます。この「ミ(ズ)コリ」や「ミココ(またはミコロ)」を同神とみて、壱岐直と対馬直は同祖という見方があります。一方『古事記』では、天菩比命之子(天穂日命の子)、建比良鳥命(たけひらとり)が津島直の祖とされています。建比良鳥命は天夷鳥命(あめのひなとり)とも呼ばれ、紀国造の遠祖・天御鳥命と同神でもあります。

この天夷鳥命は松尾大社の祭神・大山咋神(天櫛玉命・饒速日命)の父でもあります。また天夷鳥命と同神ともいわれる天鳥船神が月読神社の摂社・御船社に祀られているので、やはり壱岐島造や対馬直の祖は天夷鳥命につながるのかもしれません。また、天夷鳥命は、阿波忌部氏からみると天背男命にあたるようで、その娘らと婚姻関係にあったとみられるのが中臣氏です。中臣氏と壱岐氏はもとは同祖ではないけれども姻戚関係によって同族となったようです。

壱岐直の祖といわれる真根子は、伝えられる系譜を見る限り、武内宿禰の妹とも娘ともいわれる忍媛(おしひめ)と、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ・雷大臣)との間に生まれています。そういうわけで、武内宿禰と真根子はそっくりだったといわれたのでしょう。押見宿禰はその真根子命の5世孫とされています。壱岐直は同族関係を築いた姻族らで継承されていたのかもしれません。

中臣氏、壱岐直真根子、武内宿祢の関係と押見宿祢までの系譜
中臣氏、壱岐直真根子、武内宿祢の関係と押見宿祢までの系譜(タップで拡大)

月読神社の本社である松尾大社の社家は、男系が秦姓を賜った饒速日命の子孫で世襲されたという所伝があります。月読神社が松室に遷ったために、松尾大社との結びつきが強くなったといわれていますが、饒速日命(天櫛玉命)の父が天夷鳥命なので、もともと壱岐氏と無縁ではなさそうです。月読神社は松尾三社に数えられた重要な神社で、祭礼にもそれは現れています。ただし、松尾大社は秦氏から女系を迎えていたようで、もしそうなら数代のうちに秦氏の血脈のほうが優勢になっていったでしょう。

平安時代後期の松尾大社の神主であった秦宿禰頼任は卜部氏の妻を迎え、その子らが月読神社の禰宜・祝となり、月読神社の社務を世襲したともいわれています。そういう縁で、月読神社は松尾大社の秦氏の庇護を受けて従属的な地位にあったといわれますが、優位であったのは松室氏(卜部氏)という説もあります。

月読神社を訪れたときは、1組のカップルが御祈祷を受けられていて、ちょうど終わったところでした。ほどなくして境内には人影がなくなり閑散としましたが、境内の一角には月延石(つきのべいし)が祀られていて、安産祈願が書かれた小石がたくさん積まれていました。戌の日には安産守護の御祈祷があるようです。

この月延石は神功皇后ゆかりの石で、撫でると安産の霊験があるといわれています。神功皇后は妊娠したまま三韓征討に向かい、その途中で産気づき、神石を腰に挟んで出産を遅らせ(延ばし)、帰国後、無事に応神天皇を産まれたと伝えられています。

記・紀によれば、その石は筑紫の伊都県(怡土村)にあったとされています。また、万葉集に収められる山上憶良の歌の題詞や「筑前国風土記」には2つの石があったと記されています。応神天皇の生誕から300年ほどたった舒明天皇2年(630)に月読尊の神託があり、伊岐公乙らを筑紫に派遣してその石を持ち帰らせ、月読神社に奉納されたそうです。舒明天皇の時代なら、月読神社はまだ歌荒樔田(うたあらすだ)の地にあった時代で、遷座とともにこの石も遷されたのでしょう。

京都・月読神社の月読宮と刻まれた灯籠
月読宮と刻まれた灯籠
京都・月読神社の神門
神門
京都・月読神社の拝殿
拝殿
京都・月読神社、拝殿の奥に離れて本殿が建つ。
拝殿の奥に離れて本殿が建つ。
京都・月読神社の本殿
本殿
京都・月読神社の本殿前の灯籠
本殿前の灯籠
京都・月読神社、縁結びのご利益がある「むすびの木」
縁結びのご利益がある「むすびの木」
京都・月読神社の願掛け陰陽石
願掛け陰陽石
京都・月読神社の解穢(かいわい)の水
解穢(かいわい)の水
中臣氏 系図(壱岐直真根子、武内宿祢の関係と押見宿祢までの系譜)
中臣氏、壱岐直真根子、武内宿祢の関係と押見宿祢までの系譜(クリックで拡大)
京都・月読神社の御船社
御船社
祭神は天鳥船神(あまのとりふねのかみ)。松尾祭の神幸祭では月読神社の神霊は「唐櫃」に遷され、社頭で船渡御安全祈願祭が行われる。
京都・月読神社の聖徳太子社
聖徳太子社
月読尊を崇敬したといわれる聖徳太子を祀る。また聖徳太子が秦河勝と関係が深かったため、後世、秦氏によって祀られたといわれている。
京都・月読神社の神功皇后ゆかりの月延石(つきのべいし)
月延石(つきのべいし)
安産御祈願の小石がぎっしり。
関連メモ&周辺

押見宿祢
霊社遺跡の碑

京都 月読神社の創祀に関わった押見宿祢(おしみのすくね)の霊社遺跡の碑
押見宿祢の後裔である松室氏は、二条天皇の中宮となった藤原育子の生母を出している。その育子を養女に迎えたのが藤原北家の藤原忠道である。碑には、江戸時代に17分家は、男子は非蔵人、女子は御局として宮中に仕えたものが多いと刻まれている。かつては月読神社に押見宿祢の霊社があったとも。

主な参考資料(著者敬称略):

『松尾大社』学生社 /『日本の神々5』谷川健一 編 白水社 /『京都の歴史を足元からさぐる 嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻』森浩一 学生社 /『古代氏族の研究11秦氏・漢氏』宝賀寿男 青垣出版 /

TOP