祇王寺
(ぎおうじ)二尊院門前を北へ少し歩き、西に折れた小倉山山麓に建つ祇王寺。お寺といっても大伽藍はなく、茅葺の建物だけが樹木と苔に覆われるように静かに佇んでいます。祇王寺は『平家物語』で語られる白拍子、祇王(ぎおう)の悲哀を今に伝えています。
祇王寺
山号・寺号 | 高松山 祇王寺(真言宗大覚寺派) |
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住所 | 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂32 |
電話 | 075-861-3574 |
アクセス | JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」下車 徒歩約20分 京福嵐山線「嵐山」下車徒歩20分 市バス 11系統「嵯峨小学校前」下車 徒歩17分 28,91系統「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩15分 |
拝観時間 | 9:00-16:50(受付終了16:30) |
拝観料 | 大人300円・小人(小中高生)100円 障害者手帳・特定医療費(指定難病)受給者証の提示でご本人様無料 大覚寺(大沢池エリア除く)・祇王寺共通拝観券:800円 |
公式サイト | http://www.giouji.or.jp/ |
『平家物語』祇王の悲哀を伝える祇王寺
『平家物語』は、平家の栄枯盛衰を語る軍記物で、一貫して世の無常が描かれています。その巻第一で白拍子「祇王」の生涯が語られます。白拍子とは白い水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)を被り、白鞘の刀を差した男装で、今様を歌いながら舞う遊女のことです。
当時都で人気を博していた祇王は平清盛に見初められ、西八条殿に入り寵愛を受けていました。近江生まれの祇王は、父の死後、妹の祇女(ぎじょ)と母の刀自(とじ)とともに京都に出て白拍子となっていました。清盛は祇王の家族のために館を建て米を送っていたそうです。そんな折、加賀出身の仏(ほとけ)という白拍子も都で評判となり、舞を観て欲しいと自ら西八条殿を訪れました。
初めは門前払いをしていた清盛でしたが、祇王がうら若い仏を気の毒に思ってとりなすと、清盛は仏の今様と舞にすっかり心を奪われ、その場で仏を引きとめ、祇王を追い出してしまいます。仏は自分を責めますが、どうにもならない事態になりました。祇王は涙ながらに襖に歌を書き残して屋敷を出ます。
萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草
何れか秋に あはではつべき
(仏が愛されるのも、私が捨てられるのも、所詮は同じ野辺の草。秋になって果て枯れるように、いつかは清盛に飽きられるのよ)
その後も涙にくれる祇王のもとへ、清盛は使者を送り、仏御前が退屈しているから舞を観せに来いといいます。母に説き伏せられ、泣く泣く歌い、屈辱の舞を披露する祇王。
仏もむかしは凡夫なり
われらもつひには仏なり
何れも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
(仏御前も昔は凡夫。私たちもしまいには悟りを開いて仏になる身。どちらも仏性を備えているのに、分け隔てされるのは悲しいことです)
その場に居合わせた者は皆涙したようです。その後、自死を決意した祇王に、妹の祇女(ぎじょ)も連れ添う覚悟でした。けれども、母にまで一緒に果てると言われ、親を道連れにするのは五逆の罪にあたるので、未来永劫、暗闇で輪廻を繰り返すわけにはいかないと言って、結局、母子3人で出家し、奥嵯峨の草庵、往生院に籠ります。
暫くたったある日、往生院の門を叩く仏御前の姿がありました。仏御前自身も苦悩に苛まれていたところ、祇王と家族が念仏三昧の日々を送っていると知り、清盛の館を出て髪を剃ってやって来たのでした。こうして4人共々浄土を願い、余生を仏門に過ごして往生を遂げたと語られます。
祇王寺は大覚寺塔頭の尼寺となっています。山のなかの草庵といった趣で、苔むした庭園はしっとりと心和ませてくれます。もとは大原良忍の融通念仏を継いだ良鎮(りょうちん)が勧進道場として創建した往生院の子院でした。やがて往生院は荒廃し、江戸時代に祇王寺と三宝寺のみが再建されました。現在の建物は明治に元京都府知事・北垣国道氏により別荘が寄進され建て替えられたものです。
本堂の仏間には、本尊の大日如来像と、祇王、祇女、刀自、仏御前、清盛の木像が安置されています。また境内には、祇王、祇女、母の墓が祀られています。なお、仏御前については別のいきさつが加賀に伝えられています。じつは仏御前が往生院にやって来たとき清盛の子を身籠っていて、加賀に戻る途中、白山の麓で子を産みますが、その子はすぐに亡くなり、その後、仏は生まれ故郷の仏ヶ原というところに戻って亡くなったといわれています(異説もあり)。