京都の時空に舞った風
旧跡とその周辺の歴史を中心に。
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大覚寺

(だいかくじ)

大覚寺の前身は嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」です。嵯峨天皇の皇女、正子内親王(まさこないしんのう)により真言宗の寺院に改められ、鎌倉時代に後宇多天皇により壮大な伽藍が造営されました。建物は御所風の品格を備え、多くの寺宝を所蔵しています。華道嵯峨御流(さがごりゅう)の家元でもあります。

鎌倉時代に後宇多天皇により造営された大覚寺。その本堂・五大堂 五大堂(本堂)

INFORMATION
山号・寺号 嵯峨山 大覚寺(真言宗大覚寺派)
住所 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
電話 075-871-0071
アクセス JR嵯峨野線 嵯峨嵐山下車 徒歩約17分
市バス
28,91系統「大覚寺」下車
京都バス 61,64,71,74,81,94系統「大覚寺」下車
京福電車 嵐山線「嵐山」下車徒歩20分
拝観時間 9:00-17:00
拝観料 大人 500円 小中高 300円
大沢池:文化財維持協力金200円
公式サイト http://www.daikakuji.or.jp/
※↑2019/4確認時の情報です。

嵯峨天皇の離宮~大覚寺~南北朝時代

大覚寺の前身である嵯峨院は、嵯峨天皇により、大同4年(809)の即位と同時に造営された広大な離宮でした。橘嘉智子が夫人となったのもこの年です。神野親王(嵯峨天皇)は即位前からたびたびこの地に遊猟に訪れ、親王が立ち寄るための山荘もあったようです。唐への憧れが強い天皇は、長安の北方にある嵯峨山にちなんで離宮を嵯峨院と呼び、やがて嵯峨院のあるこの地は嵯峨野と呼ばれました。天皇が嵯峨野をこよなく愛したことにちなんで崩御後に「嵯峨天皇」の諡号が贈られました。境内の大沢池は今も1200年前の面影を残す苑池です。

嵯峨天皇は延暦5年(786)、桓武天皇の第2皇子として長岡京に生まれています。幼いころから聡明で、成長するとともに中国の史書に傾倒し、漢詩や書にも造詣が深く、君主としての器も十分だったといわれています。なので、唐に留学経験があり、能書家で漢詩にも長けた空海と嵯峨天皇の間に私的な交流が生まれたのは自然なことだったかもしれません。

嵯峨天皇が同母兄である平城天皇から譲位されたのは大同4年(809)4月のことでした。そしてその3ヵ月後の7月に嵯峨天皇は和泉にいた空海に高雄山寺(今の神護寺)への入寺を命じます。和泉の国司宛てに官符を発給したのは小野岑守(おののみねもり)でした。同じ年の10月、さっそく嵯峨天皇は山背豊継を遣いに出し、空海に対して『世説』を屏風に書くよう命じています。以後、両者の私的な交流が始まるようです。ただし公式にはほとんど伝えられていません。

嵯峨天皇の兄である平城上皇はつねづね病弱で不安定な人だったといわれています。妻の母、薬子に誘惑され、嵯峨天皇に譲位した後も、薬子と薬子の兄、藤原仲成に動かされて奈良と京都に2つの朝廷が並び立つ事態となりました。さらに平城太上天皇として平城京遷都の詔を出したために、大同5年(810)9月、嵯峨天皇は対立姿勢を明らかにしてこれを制します。

嵯峨天皇の執政は、才能ある官僚たちを中央に集めて結束させ、彼らブレ―ンに政務を委ねるというものだったようです。藤原園人や藤原葛野麻呂、そのあとを受けた藤原冬嗣を中心として、良峯安世(よしみねやすよ)や藤原三守(ふじわらのみもり)、小野岑守(おののみねもり)や巨勢野足(こせののたり)ら、多くの高級官僚が天皇を支えて活躍した時代でした。

一方、嵯峨天皇は、皇室の伝統にしたがって超然と意思決定を伝えるのはもちろん、文化事業にめっぽう傾注した人とみられています。漢詩の才に恵まれた天皇を中心として文化サロンがつくられ、側近たちも懸命に力作を詠じました。嵯峨天皇は「叡智が国を治める」というのがモットーだったようです。財政難に陥ったときでも神泉苑で詩宴を催しつづける天皇に対し、藤原園人から中止要請が出たほどでした。またのちに、詩宴は宮廷だけでなく貴族の邸宅などでも行われるようになり、離宮・嵯峨院も文化サロンとして利用されていました。

大覚寺の寺伝によれば、嵯峨院の造営まもない弘仁2年(811)には、敷地内に五大明王を祀る五覚院(五大明王院)が建てられていたと伝えられています。五覚院は嵯峨天皇の持仏堂でしたが、空海が嵯峨天皇を嵯峨院に訪ねたときに使った僧坊であったともいわれています。

弘仁8年(817)、都は旱魃で大飢饉に見舞われ、死者が多く出て、疫病が猛威を振るいました。翌年にも日照りと飢饉は収まらず、嵯峨天皇は「去年秋稼、燋傷して収まらず、今ここに新苗繁殖すれども望みを経つ。朕の不徳と致すところ、百姓に何の罪あらんや」と詔のなかで自責の念を述べられています。このとき各地の神社に奉幣を走らせ、諸寺においても転経・礼仏をさせ、宮中では節約を極めて、馬のまぐさも減らされたそうです。また道端で行き倒れた人々の屍が集められて埋葬され、飢えた者には食糧が施されました(『日本紀略』弘仁9年4月条)。

さらに天皇は疫病退散を祈願して「般若心経一巻」を書写して空海に供養させ、持仏堂に奉納したと伝えられています。境内の心経殿には、このときの嵯峨天皇による般若心経のほか、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の写経が勅封として納められているそうです。嵯峨天皇宸筆の般若心経は後世たびたび開封され、歴代天皇や貴人が高覧に預り、その功徳が信仰されてきたといわれています。その伝統のもと、現在も大覚寺は般若心経の寺、写経の寺とよばれています。

嵯峨天皇崩御後の貞観18年(876)、嵯峨院を大覚寺に改めたのは、嵯峨天皇の皇女で、淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇后であった正子内親王(まさこないしんのう)でした。またこのとき寺院の整備に尽力したのが菅原道真でした。道真は大覚寺の住持の選出方法を規定し、別当職の設置の必要性を示し、仏法興隆による国家の護持を目的として、その功徳を生きとし生けるものすべてに及ぼし救いたいとする上表文を起草しています。

大覚寺開山に迎えられたのは嵯峨天皇の孫、恒貞親王(つねさだしんのう)です。恒貞親王は、承和9年(842)に橘逸勢(たちばなのはやなり)や伴健岑(とものこわみね)らの謀反に連坐して無実の罪で廃太子となり、出家して恒寂(ごうじゃく)と称しました。貞観2年(860)に具足戒を受け、真如(しんにょ)のもとで密教両部の秘法を受けています。真如は平城天皇の第3皇子(俗名:高岳親王)で、薬子の変のとき、無実の罪で廃太子となっていました。出家した真如は空海の門弟となり、晩年入唐しましたが天竺に向かう途中で虎に襲われたと伝承されています。

恒寂親王から始まった大覚寺ですが、第3代定昭(じょうしょう)は興福寺一乗院を創建して大覚寺の住持を兼帯し、以後、第20代の良信までの約290年間、大覚寺は興福寺一乗院との兼帯がつづいて事実上衰退していきます。鎌倉時代になり、亀山天皇や後宇多天皇が出家し、法皇となって大覚寺で院政を行ったので嵯峨御所と呼ばれるようになりました。

大覚寺の中興の祖と崇められるのは、第23代門跡の後宇多法皇です。法皇は大覚寺の広大な寺域に仏母心院、五覚院、大覚寺、御影堂、蓮華峯寺、教王常住院、龍華院、金堂、宇智院などの大伽藍を造営して再興に努めました。この復興事業は創建事業ともいわれ、寺院の組織も刷新されたといわれています。

文永4年(1267)に生まれた後宇多法皇は8歳で即位し、弘安10年(1287)21歳で伏見天皇に譲位しました。法皇誕生のときに両部曼荼羅の出現の奇瑞があり、幼くして護摩や論議のまねごとをして遊んだといわれています。譲位後に小野流・広沢流から密教を受法し、41歳のとき大覚寺で出家、徳治3年(1308)に東寺潅頂院で大阿闍梨の禅助から伝法潅頂を受法して正式な密教僧となりました。

法皇の生涯は並々ならぬ弘法大師信仰とともにあったと伝えられています。法皇は大覚寺の伽藍や運営方法を整える一方で、高野山と室生山(むろうさん)への崇敬や、香川の善通寺や曼荼羅寺、誕生院への配慮を自筆の『御手印遺告(ごていんゆいこく)』のなかで記しています。これらはすべて空海ゆかりの寺です。東寺や神護寺の興隆にも尽力し、また『御宸翰(ごしんかん)弘法大師伝』を著すなど、大師への特別な想いにしたがって生きた人でした。

同じころ皇室は南北朝に二分します。南朝の亀山天皇や後宇多天皇の皇統は大覚寺に住持したので大覚寺統と呼ばれました。北朝は持明院統です。南北朝ははじめ鎌倉幕府の仲介で両統迭立が行われましたが、後醍醐天皇が建武の新政に失敗して足利尊氏と対立、吉野に南朝を遷して以降、約60年南北朝の動乱がつづきました。大覚寺は延元元年(1336)の後醍醐天皇と足利尊氏の対立による兵火で諸堂を焼失しました。

室町時代の明徳3年(1392)、足利義満の治世に、大覚寺を舞台に南北朝講和が行われました。このとき南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って一応の南北朝の合一となりましたが、両統迭立の約束は果たされず北朝の皇統が続きます。これに対し、南朝の再興運動が起こり、長禄元年(1457)に南朝後裔の手から神器が奪われるまで対立は続きました。

京都 大覚寺 御殿風の趣ある表門
表門
京都 大覚寺の式台玄関
式台玄関
京都 大覚寺の勅使門
勅使門
京都 大覚寺の大玄関の御輿(みこし)
大玄関の御輿(みこし)
京都 大覚寺の宸殿から勅使門を望む
宸殿から勅使門を望む
京都 大覚寺の正宸殿
正宸殿
京都 大覚寺の御影堂
御影堂
文殊菩薩の智剣をもつ弘法大師像、嵯峨天皇尊像、後宇多天皇尊像が祀られる。
京都 大覚寺の御霊殿(安井堂)
御霊殿(安井堂)
明治4年(1871)東山の安井門跡蓮華光院の御影堂を移築。内陣奥の折上鏡天井に雲龍図が描かれている。
京都 大覚寺の霊明殿
霊明殿
京都 大覚寺の五大堂
五大堂
京都 大覚寺の心経殿
心経殿
京都 大覚寺の心経宝塔(多宝塔)
心経宝塔(多宝塔)
京都 大覚寺の境内 仏母心院跡とされる護摩堂
仏母心院跡とされる護摩堂
京都 大覚寺境内にある大日堂
大日堂
京都 大覚寺境内にある聖天堂
聖天堂
京都 大覚寺境内にある閼伽井(あかい)
閼伽井(あかい)
京都 大覚寺境内にある五社明神
五社明神
京都 大覚寺境内にある茶席 望雲亭
茶席 望雲亭

平安初期の面影と門跡寺院の風格。大覚寺流華道の寺。

大覚寺の境内はとても広く、とくに伽藍の東にひろがる大沢池(おおさわのいけ)とその周辺は平安時代を偲ぶことのできる京都で最も古い庭園です。

それに対し現在の大覚寺の伽藍のほとんどは江戸時代以降のものですが、離宮としての住宅風の気品ある佇まいと門跡寺院の風格を今に伝えています。密教寺院によくある仁王門でなく本瓦葺の端整な表門などは、寺院というより御所を感じさせます。

正寝殿から宸殿、御影堂、御霊殿、五大堂などの建物は「村雨の廊下」と呼ばれる鴬張りの回廊で結ばれています。幾重にも折れ曲がる廊下は侵入者の直進を妨げ、梁の低い天井は刀や槍を振り上げられないようにできていて、防犯の行き届いた建築になっています。宸殿は後水尾天皇から賜ったもので、徳川2代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮、東福門院和子が女御御所の宸殿として使用していたものといわれています。宸殿の前庭には白砂が整然と敷かれ、左近の(桜ではなく)梅と右近の橘とが配されています。

宸殿や正寝殿には狩野山楽をはじめ狩野派の障壁画(複製)が張り巡らされています。山楽の父は浅井長政の家臣でのちに秀吉に仕えていました。そんな背景のもと山楽は豊臣秀吉の推挙で狩野永徳の門弟となりました。豊臣家が滅亡したとき山楽は豊臣側の残党として命を狙われますが、徳川秀忠の庇護を受けて事なきを得たといいます。江戸時代、狩野家は本拠を京都から江戸に移しますが、山楽・山雪の系統は京都に残り、京都における徳川家発注の障壁画の制作を担当していました。

12部屋からなる正寝殿は宸殿より古い桃山時代の建築とされています。「御冠の間(おかんむりのま)」はもともと鎌倉時代に後宇多法皇が院政を執った間を継承したもので、執務の際、御冠をそばに置いたことからそのように呼ばれています。室町時代に南北朝講和が行われた間でもありました。また、この部屋の柱や襖の桟には黒漆塗に金平の蒔絵が施されていて、嵯峨蒔絵と呼ばれています。

霊宝館(収蔵庫)には「五大虚空蔵菩薩像」「金剛界曼荼羅残欠」など鎌倉期の密教美術品が多く収められています。常設展のほか、春と秋には特別展も催されます。

回廊を行き止まりまで行くと大覚寺の本堂である五大堂が大沢池のほとりに建っていて、本尊の五大明王が祀られています。また五大堂からは大沢池に向かって広い観月台が張り出していて、天神島や菊ガ島を望むことができます。

大沢池は嵯峨天皇により唐の「洞庭湖(どうていこ)」を模して造られたため「庭湖」とも呼ばれます。周囲1kmにもおよぶ巨大な苑池で、五大堂からの眺めもすばらしいのですが、池周辺や天神島などの史跡を散策するのが気持ちいいです。平安時代には貴族が船を浮かべて観月を楽しんだといわれ、現在も秋の行事として催されます。

なお大覚寺は華道嵯峨御流(さがごりゅう)の家元であり、生け花発祥の花の寺として知られています。平安時代、嵯峨天皇が大沢池の菊ヶ島に咲く野菊をいけたのが始まりといわれ、毎年春に華道祭が行われます。

京都 大覚寺の正寝殿から宸殿、御影堂、御霊殿、五大堂の建物を結ぶ村雨の廊下
村雨の廊下
京都 大覚寺の宸殿 牡丹図
宸殿 牡丹図
京都 大覚寺の正寝殿 御冠の間
正寝殿 御冠の間
京都 大覚寺の正寝殿 対面の間
正寝殿 対面の間
京都 大覚寺の五大堂
五大堂
京都 大覚寺の観月台と大沢池
観月台と大沢池(おおさわのいけ)
京都 大覚寺の大沢池
大沢池
京都 大覚寺の華道祭のときの宸殿前の花車
華道祭のときの宸殿前の花車
関連メモ&周辺

名古曽の滝跡
(なこそのたき)

京都 大覚寺境内、大沢の池近くの「名古曽の滝(なこそのたき)跡」
平安時代、嵯峨院の滝殿庭園内に造られていた滝の石組跡で、『今昔物語』によれば百済川成の作庭とされる。藤原公任(ふじわらのきんとう)の有名な歌に、「滝の音は絶えて久しくなりぬれど、名こそ流れてなほ聞こえけれ」がある。平成6年の発掘調査で、後宇多天皇が復興した際に涸れていた名古曽の滝や遣水の改修(中世の遣水)した跡も発見された。

天神島と菊が島

京都 大覚寺境内、大沢の池にある天神島の鳥居と祠 天神島の鳥居と祠 京都 大覚寺境内、大沢の池にある菊ヶ島 菊ヶ島 京都 大覚寺境内、大沢の池にある庭湖石 庭湖石

大沢池には天神島と菊が島が浮かび、その間に庭湖石がある。この二島一石の配置が華道大覚寺流の基本となっているという。その天神島には菅原道真が祀られている。これは、離宮を大覚寺に改めようとした正子内親王と恒貞親王母子のために道真が尽力したためだといわれている。一方で、この母子の墓所が天神島にあり、それは承和の変で母子が味わった無念を道真の怨霊で鎮めるためだという説もある。
また菊が島には第3代門跡の定昭が葬られているという。大覚寺の古文書には「定昭之墓、今の大沢の中、菊嶋是れ也。永く法流を守るべしと、遺告して猶しも誦経の声有り」とあり、菊が島は天神島を守る島でもあるという。つまり、定昭が天神島に眠る大覚寺発願の正子内親王と初代門跡の恒貞親王の霊と法流を守っているとも考えられている。

主な参考資料(著者敬称略):

『嵯峨大覚寺 人と歴史』村岡空 朱鷺書房 /『嵯峨天皇と文人官僚』井上辰雄 塙書房 /『新版古寺巡礼 京都28 大覚寺』淡交社 /『空海 生涯とその周辺』高木訷元 吉川弘文館 /

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