萬福寺
(まんぷくじ)萬福寺は江戸時代初期に中国の禅僧、隠元隆琦(いんげんりゅうき)によって開かれた禅寺です。牌楼(ぱいろう)式の総門や、建物に掲げられた額や聯(れん)の文字、敷石で巡らされた回廊、天王殿に祀られた布袋坐像など、京都のほかの寺院では感じることのできない明朝時代の中国の空気が境内に充満しています。
総門
山号・寺号 | 黄檗山 萬福寺(黄檗宗) |
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住所 | 京都府宇治市五ヶ庄三番割34 |
電話 | 0774-32-3900 |
アクセス |
JR(リンク:JRおでかけネット)奈良線「黄檗」下車徒歩5分 京阪電車 宇治線「黄檗」下車徒歩5分 |
拝観時間 | 9:00-17:00(受付16:30まで) 普茶料理は要予約(公式サイト参照) |
拝観料 |
高校生以上500円 小・中学生300円 団体30名以上: 大人450円 大学・高校生300円 中学生250円 小学生200円 |
公式サイト | http://www.obakusan.or.jp/ |
鎖国強まる江戸初期に日本に招かれた隠元(いんげん)禅師
京都に居ながらにして萬福寺の総門を入るとそこは古(いにしえ)の中国のようです。広い境内には、わが国の寺院と様相を異にする堂宇が建ち、たくさんの修行僧の人たちによるエスニック音楽のようなお経が風に乗って聞こえてきます。
中国の福建省福清県の黄檗山(おうばくさん)萬福寺の住持であった隠元禅師は、来日後、徳川4代将軍の家綱から宇治の土地をあたえられ、貞応3年(1654)に黄檗山萬福寺を開きました。
隠元は明の時代の万暦20年、和暦では文禄元年(1592)に生まれ、28歳のとき福建省の萬福寺で出家しています。幼いころに行方不明になった父を探し歩くうちに仏教に傾倒していったといわれています。
当時の明は万暦の三征(ばんれきのさんせい)とよばれる3つの戦争(ひとつは秀吉の朝鮮出兵の援兵)や宮廷の内乱をへて、農民軍が反乱するなど混乱のさなかにありました。やがて女真族が起こした清が農民反乱軍を制圧し、明に代わって王朝を築く過渡期でした。
福建省の萬福寺は臨済義玄の法脈を嗣ぐ歴史ある禅寺でしたが、明代中期から中国は仏教が衰退傾向にあり、萬福寺も荒廃していたため、隠元は再興のため北京で募金活動をしようと寺を出たといわれています。
しかし、当時の北京は治安が悪かったため、隠元は入京を諦め、諸寺をめぐり多くの僧に会って仏道修行を深めていったそうです。そうして広慧寺(こうえじ)の密雲円悟(みつうんえんご)と出会い、大いに影響を受けて34歳のときに大悟しました。
やがて密雲が萬福寺の住持になったことを受けて隠元も萬福寺に戻ります。密雲のあと、費隠通容(ひいんつうよう)が萬福寺を受け継ぎ、隠元は費隠の法嗣となります。費隠のあと隠元が萬福寺の住持となり寺を隆盛させると、日本にも隠元の活躍が伝わっていきました。
同じ頃、日本は江戸時代に入り、徳川幕府は鎖国政策を強めていきます。まずキリスト教が禁止され、徳川家光の時代には、中国とオランダ以外の外国船の入港が禁止されました。
また幕府はキリシタンを探し出すために寺請制度を設け、民衆が菩提寺を定め、檀家になることを義務づけます。貿易の窓口であった長崎には多くの華僑が住んでおり、彼らも例外ではなく菩提寺をもつ必要に迫られました。
そこで華僑は自分たちの菩提寺を建て、中国から僧を迎えて開山します。興福寺、福済寺、崇福寺(そうふくじ)は長崎三福寺と呼ばれる唐寺です。必要に迫られて開かれた寺でしたが、華僑にとっては信仰の拠り所となり、やがて修行僧や民衆は、より深い教えを指導してくれる高僧の来日を望むようになりました。
慶安3年(1650)、隠元の弟子の道者超元(どうじゃちょうげん)が来日し、長崎の崇福寺と平戸の普門寺で禅僧たちを指導しました。長崎の禅僧たちはよろこび、3年足らずで道者超元が去ったあと、今度はさらに徳の高い僧を崇福寺の住持に招こうとします。
そのころ長崎興福寺の住持だった浙江省出身の逸然性融(いつねんしょうゆう)とその弟子の無心性覚(むしんしょうかく)は、隠元の直弟子の也嬾性圭(やらんしょうけい)を崇福寺に招請しました。しかし無念にも来航途中に船が遭難し、也嬾は溺死してしまいます。
それでも逸然は諦めず、今度は隠元に来日を要請します。弟子の水死を知って悲痛のなかにいた隠元は、何度も固辞していましたが、長崎奉行の許可を取って繰り返し来日を求める逸然の熱意に押され、隠元はついに承諾、承応3年(1654)7月、20人ほどの随伴者とともに長崎に上陸しました。隠元63歳の決断でした。
隠元は熱烈に歓迎されました。長崎の僧俗に限らず、九州一円や京都でも噂は広まっていたようです。隠元はまず長崎興福寺の住持となり、次いで崇福寺に赴き開堂の儀式を行いました。こうして長崎の唐寺は一躍脚光を浴びます。
一方、京都でも妙心寺の禿翁妙周(とくおうみょうしゅう)や龍安寺の龍溪宗潜(りょうけいそうせん)らが隠元を妙心寺に迎えたいと願っていました。しかし同じ妙心寺山内の反対派と対立して失敗に終わります。それでも彼らは諦めず、京都所司代の板倉重宗を通じて幕府に働きかけ、龍溪の出身である摂津の普門寺に招請することに成功するのです。
長崎と同じく摂津でも強烈なインパクトがあったようです。禅僧や他の宗派の僧から庶民にいたるまで、中国からやってきた高僧の隠元をひと目見ようと多くの人が集まったといわれています。これは鎖国中の出来事であり、幕府ははじめ隠元の影響力を恐れて隠元の行動や僧たちとの接触を極力制限しましたが、やがて普門寺への200人以下の僧の参集や、隠元の旅行なども許可するようになりました。
当初、隠元の日本滞在は3年の約束だったそうです。隠元を師と仰ぎ、隠元の帰国を望まない龍溪宗潜はふたたび幕府を通じて引き留めに奔走します。幕府側の要路として尽力したのは酒井忠勝でした。その結果ついに徳川4代将軍家綱と隠元との会見が実現します。
一方、当の隠元は帰国したかったようです。けれども将軍から9万坪の土地を贈ることを配慮されると、隠元も日本に黄檗禅を根付かせたい情熱があったのか、日本に留まることを決心します。
隠元は宇治の大和田(現在の場所)に寺地を選び、幕府の許可を得ています。寛文元年(1661)、70歳の隠元を開山として宇治に黄檗山萬福寺が開かれました。山号寺号を福建省の萬福寺と同じにしたのには、故国を忘れないようにという意味が込められているそうです。以降、宇治の萬福寺を新黄檗、福建省の萬福寺を古黄檗と呼ぶようになりました。
開創の翌年に亡くなった酒井忠勝からは遺言で千両が寄付され、家綱からは400石の寺領をあたえられ、着々と伽藍の建立が進められます。また、隠元は、長崎の福済寺に招かれていた明の仏師、范道正(はんどうせい)を呼び寄せ、仏像を彫らせています。こうして寛文3年(1663)に開堂、日本で初めての授戒の儀式「黄檗三檀戒会」が修されました。
以後、全国各地から多くの僧俗が新黄檗に参禅します。新黄檗はそのころ臨済正宗を名乗っていましたが、鎌倉時代に伝わった日本の臨済宗や曹洞宗とはお経や儀式作法などが異なり、新しい禅宗として日本の仏教界を刺激しました。他宗から参禅して黄檗宗に転じる僧も、他宗に戻る僧もあったといわれています。それまで沈滞ムードにあった日本の禅宗は、新しい禅宗のおかげで活性化されていきました。後水尾法皇の帰依も篤く、幕閣、大名、奉行など、多くの俗世の民も隠元の法語を求めました。
新黄檗の基礎を築いた隠元は、寛文4年(1664)、木庵性瑫(もくあんしょうとう)に住持を引き継いで、松隠堂(しょういんどう)に退きます。翌年木庵は江戸に赴いて家綱に謁見し、その後江戸で紫雲山瑞聖寺(しうんざんずいしょうじ)を開創、黄檗戒檀を設けて瑞聖寺でも授戒を可能にしています。
寛文13年(1673)、隠元は後水尾法皇から「大光普照国師」の号を賜りその翌日に82歳で遷化しました。以後も萬福寺は隆盛し、最盛期の延享年間には黄檗派の寺院は全国に千箇所以上あったそうです。
隠元は萬福寺のありようを十ヵ条にまとめた『予嘱語(よしょくご)』を著し、そのなかで萬福寺の次の住持の適任者がいない場合は古黄檗から派遣すべきとしましたが、実際には14代、16代、17代と22代以降は日本人僧が住持をつとめています。
明朝の禅と生活文化を日本に伝えた隠元禅師
京都郊外の見慣れた住宅地の風景のなかに萬福寺の総門が建っています。中央が高く左右が低い牌楼式の門(漢門)を見ると、ここは中国のお寺だなと改めて思います。じつは中国に行ったことがないのですが、神戸の南京町や横浜の中華街、海外のチャイナタウンでこんな形状のゲートを見たことは何度もあります。
屋根を見上げると鯱(しゃちほこ)のような動物が置かれていますが、脚がついていてインドの女神が乗る摩伽羅(マカラ・ガンジスに生息するワニ)が転じたものだそうです。
総門をくぐると、放生池の向こうに「黄檗山」「萬福寺」の扁額を掲げる重層・三間三戸の三門がどっしりと建っています。三門からは、天王殿、大雄宝殿(だいおうほうでん)、法堂が広々とした境内に一直線上に建ち並び、その周囲には石畳の回廊がめぐらされ、開山堂、祖師堂、斎堂、禅堂など、多くの伽藍が配置されています。
臨済宗の流れをくむといっても、日本にとって黄檗禅は江戸時代に伝来した新しい仏教でした。現在の萬福寺は、伽藍も、その配置も、仏像も、さらにお経や作法なども、隠元がやってきた時代の明朝様式がほぼ創建当時のまま残っているそうです。
三門から石条と呼ばれるひし形の敷石を歩き、正面の天王殿に上がると、内陣には黄金に輝く布袋さん(弥勒菩薩坐像)が鎮座しています。お腹の出た中年のおじさんが上半身裸で「ガハハハ」と笑っているようです。布袋尊は日本では七福神のひとりですが、中国の唐末時代に実在した僧、釈契此(しゃくかいし・定応大師)で、弥勒菩薩の化身と崇められているそうです。
三門の先には萬福寺の本堂である大雄宝殿が建っています。これは日本の禅宗寺院の仏殿にあたり、境内で一番大きな建物です。正面に見える2つの丸窓は日と月を表し、廊下の天井は垂木(たるき)を蛇腹のように並べてドーム型にしたもので「黄檗天井」と呼ばれます。大雄宝殿の内陣には本尊の釈迦如来坐像と脇侍に迦葉(かしょう)像、阿難(あなん)像、またそれらを取り囲むように十八羅漢像が安置されています。
隠元は日本の仏像を好んでいなかったようで、明から来て長崎に在留していた仏師・范道正(はんどうせい)を呼び寄せて彫らせていました。天王殿の弥勒菩薩坐像やそれと背中合わせに祀られる韋駄天(いだてん)像、大雄宝殿の十八羅漢像、禅堂の白衣観音坐像、祖師堂の達磨大師坐像など、多くは范道正の作品で、いずれもとても人間味のある表情をしています。
また、建物のまわりの勾欄にも珍しい意匠がみられます。天王殿の襷(たすき)掛けにくまれた勾欄は、中央チベットの建物によく見られる様式といわれ、大雄宝殿の奥に建つ法堂の勾欄は、卍くずしと呼ばれる明代建築様式の影響を強く受けたものといわれています。
さらに建物それぞれに掲げられた扁額と1対の聯(れん)も特徴的で、扁額の多くは緑青の地に躍動感あふれる文字が書かれています。隠元とその弟子の木庵、即非(そくひ)は黄檗三筆と呼ばれる能筆家ですが、萬福寺にはほかにも書に優れた中国僧がたくさん出ていて、彼らの書風はのちに贋作が出回るほど人気だったそうです。
三門の「黄檗山」「萬福寺」、本堂の「大雄宝殿」、禅堂の「選佛場」などの扁額は隠元の筆によるもので、大雄宝殿の下層の「萬徳尊」、山門の聯などは木庵によって書かれました。また木庵と即非は絵画にも優れていて、多くの作品が伝えられています。
黄龍閣(おうりゅうかく)の一室で、萬福寺に伝わる普茶料理(ふちゃりょうり)をいただいたあと、改めて境内をゆっくりとまわりました。普茶料理は中国風の精進料理ですが、僧侶の食事ではなく、もとは客人をもてなすために用意される料理だったそうです。
一方、修行僧の人たちが食事をするのは斎堂(さいどう)で、その堂前には大きな魚の形をした開梛(かいぱん)と、雲型の雲版(うんぱん)が吊るされています。開梛は日常の行事や儀式の時刻を修行僧が礼棒でたたいて知らせるための鳴り物で、雲版は食事や朝課の時刻を知らせるのに使われるそうです。開梛は木魚の原型といわれ、お経に使われる丸い木魚は黄檗禅によって日本にもたらされました。
黄檗宗はお経も独特です。黄檗梵唄(おおばくぼんばい)と呼ばれるお経では、木魚やその他の鳴り物もよく使われるようです。日本に伝わった当初、慣れないせいか、拍子は面白いが耳障りだと日本の臨済宗の僧侶たちには不評だったそうです。修行僧の道場である禅堂からは、独特の旋律とリズムをもつ音楽のようなお経が聴こえていました。
黄檗禅とともに建築や書道、美術や音楽などさまざまな文化を伝えた隠元と萬福寺ですが、インゲン豆はもちろん、タケノコ、スイカ、レンコン、明の煎茶なども隠元によって日本に持ち込まれたといわれています。