東福寺
(とうふくじ)東福寺は鎌倉中期に九条道家によって建てられ、のちに禅専修の寺院になりました。開山の円爾(えんに・聖一国師)は入宋、帰国後に静岡茶や製麺技術を伝えたことでも知られています。京都随一のもみじの名所で、臥雲橋(がうんきょう)から通天橋(つうてんきょう)を望む紅葉は圧巻です。
秋の通天橋 ※2016年~紅葉シーズンの通天橋・臥雲橋からの写真撮影禁止の場合あり。(写真は2013/11/21撮影)
山号・寺号 | 慧日山(えにちさん) 東福寺(臨済宗東福寺派) |
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住所 | 京都市東山区本町15 |
電話 | 075-561-0087 |
アクセス |
JR(リンク:JRおでかけネット)奈良線「東福寺」下車徒歩10分 京阪電車「東福寺」下車徒歩10分 市バス 88,202,207,208系統「東福寺」下車4分 |
拝観時間 | 4月~10月末:9:00-16:00(16:30閉門) 11月~12月第1日曜まで:8:30-16:00(16:30閉門) 12月第1月曜~3月末:9:00-15:30(16:00閉門) |
拝観料 |
通常期: 通天橋・開山堂:大人600円 小中学生300円 東福寺本坊庭園:大人500円 小中学生300円 本坊庭園・通天橋・開山堂共通券 大人1,000円 小人500円 秋季 11/11-12/3: 通天橋・開山堂:大人1,000円(小中学生300円) ※障害者手帳の提示で本人と付添1名無料 |
公式サイト | https://tofukuji.jp/ |
東福寺建立を願った九条道家(くじょうみちいえ)
これでも明治の廃仏毀釈で規模がかなり縮小されたというから、東福寺のスケールは尋常ではありません。渓谷を取り入れた広大な境内には3つの橋が架けられ、巨大な三門をはじめ大伽藍が連なり、25の塔頭寺院が点在する臨済宗の根本道場です。その偉容から「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と呼ばれました。
3つの橋とは偃月橋(えんげつきょう)、通天橋(つうてんきょう)、臥雲橋(がうんきょう)を指し、渓谷の上流から下流にかけて架けられています。すべて屋根付きの橋廊となっています。
東福寺が創建される以前、この地には藤原忠平(ふじわらのただひら)が平安時代の延長年間(923-31)に建立した法性寺(ほっしょうじ)という大規模な寺院がありました。忠平のひ孫にあたる藤原道長は荒神口に法成寺(ほうじょうじ)を、道長の子、頼道は宇治に平等院を造営しましたが、法性寺はそれらを凌ぐ大寺であったといわれています。
法性寺の境内には、寛弘3年(1006)に道長によって五大堂が建てられ、久安4年(1148)には、法性寺関白とよばれた藤原忠通(ふじわらのただみち)によって最勝金剛院が建てられました。また忠平の三男である九条兼実(くじょうかねざね)によって月輪殿も建てられていました。五大堂には丈六の五大明王が祀られ、最勝金剛院や月輪殿には丈六の阿弥陀像が安置されていたといわれています。このように法性寺は平安時代前期の創建から鎌倉中期に至る300年余りの間、月輪山の山麓にあって藤原氏一族の氏寺として栄えていました。
その法性寺の境内に、兼実の孫の九条道家(くじょうみちいえ)が東福寺を建立し、東福寺の発展とともに法性寺は合併吸収されていったといわれています。鎌倉時代の嘉禎2年(1236)4月、摂政であった道家は九条家の菩提寺として東福寺の建立を発願しました。東福寺の名は、京都最大の寺とするべく東大寺と興福寺から一字ずつを採ったといわれています。ちなみに興福寺は藤原氏の氏寺です。ところが当時、興福寺に手を焼いていたのは、他ならぬ道家だったようです。
嘉禎元年(1235)6月、石清水八幡宮領の薪庄(たきぎのしょう)と興福寺春日社領の大住庄(おおすみのしょう)は用水の利権をめぐって争い、とうとう興福寺は強訴を起こすという事態になりました。道家は氏長者(うじのちょうじゃ)として解決に努めますが、収拾がつかず、翌年ついに鎌倉幕府(六波羅探題)が軍事介入して興福寺を屈服させています。
本来、強訴を収束させる責任は氏長者にあるといわれますが、道家にはそれが果たせませんでした。このことは幕府が道家への信頼を失うきっかけのひとつとなったと考えられています。一方で、道家が東大寺と興福寺を足したような権威ある東福寺の建立を目指したのは、ちょうどこの事件の真っ最中でした。
道家は建久4年(1193)、九条良経(くじょうよしつね)を父として生まれています。母は一条能保(いちじょうよしやす)の娘で、源頼朝の姪にあたります。また叔父の藤原良輔は後鳥羽上皇の外戚である坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘婿となっていました。つまり道家は、鎌倉将軍家と皇室の両方につながる血筋にあったのです。
8歳で母を、13歳で父を、14歳で祖父の兼実を亡くした道家を支えたのは後鳥羽院でした。これは九条家と同じく摂関家であった近衛家の勢力を抑えるためだったと考えられています。さらに道家は、鎌倉幕府とむすびつきの深い西園寺公経の娘婿に迎えられ、朝幕の後ろ盾を得て、栄達の道を歩むのです。
ところが承久3年(1221)、承久の乱が起こり、後鳥羽院が隠岐へ、順徳院が佐渡へ流されてしまいます。道家も蟄居を余儀なくされますが、西園寺公経の娘、綸子(りんし)との間に生まれた道家の三男、藤原頼経が鎌倉4代将軍に就くと、道家は関白に登用されて政界に復帰しました。寛喜2年(1230)には、道家は長女、竴子(しゅんし)を後堀河天皇の中宮に入れ、生まれた秀仁(みつひと)親王を2歳で即位(四条天皇)させると自ら摂政となり、天皇、摂関、将軍を九条家で押さえ、盤石の体制で権勢を揮います。しかしそれは長続きしませんでした。
承久の乱の直後に後高倉上皇、北条義時、北条政子らが相次いで亡くなり、人々は早くから隠岐に流された後鳥羽院の怨念を心配したといいます(存命中なので怨霊でなく、怨念)。以来、朝廷の周辺では上皇の還京待望論が広まっていました。西園寺公経とともに関東申次を務め、親幕派を意識していたはずの道家でしたが、嘉禎元年(1235)3月、配流されていた後鳥羽院と順徳院の還京を幕府に打診して、時の執権、北条泰時に断固拒否されています。そのころ鎌倉幕府の政治は執権である北条氏を中心に評定衆らの合議によって行われており、道家が頼りにしていた将軍頼経は幕府の意思決定に関与できなかったとみられています。
その後、道家の外孫の四条天皇が12歳で崩御すると、道家はここでも順徳院の皇子、忠成王(ただなりおう)を皇嗣として推挙するも、またもや北条泰時の猛反発に遭い、結局、承久の乱に関わりのなかった土御門天皇の皇子、邦仁王(くにひとおう・後嵯峨天皇)を幕府が推して践祚。寛元2年(1244)、西園寺公経が亡くなると、道家は関東申次を独占・世襲化しようと画策しました。ところが寛元4年(1246)、頼経が鎌倉で失脚し京都に送還されると、ついに道家も政界から排除されてしまいます。
道家が大宰府にいた円爾(えんに)を東福寺の開山に迎えたのは寛元元年(1243)で、彼の影響力はすでに衰えていました。博多崇福寺(そうふくじ)の湛慧(たんえ)の仲介のもと、道家の子の二条良実(にじょうよしざね)が円爾を父に引き合わせたといわれています。そのとき東福寺境内は大陸風の大伽藍が建設途中にありました。道家はそれ以前に宋に留学経験のあった泉涌寺の俊芿とも交流があり、また道家の兄、慶政(けいせい)も渡宋経験者で、南宋仏教への関心は高かったようです。
道家は存命中に東福寺の完成をみることはできませんでしたが、子の頼経や二条良実、一条実経らが遺志を引き継ぎました。発願から19年を要する大事業でした。
東福寺に迎えられた禅僧・円爾(えんに)
円爾の入洛後、寛元4年(1246)には境内に普門寺が建てられ円爾の常在所とされました。普門寺は今の普門院です。九条道家は建長4年(1252)に亡くなりますが、生前書き残した「惣処分状(そうしょぶんじょう)」には東福寺の伽藍や僧衆について書かれています。それによると、仏殿、法堂、方丈、庫裡、経蔵、僧堂、浴室、東司(とうす)などの禅宗伽藍に加え、密教の五智如来が安置される五重塔、両界曼荼羅や真言八祖像が掛けられた潅頂堂、宝蔵などが建ち並び、回廊には天台六祖の像も掲げられていました。東福寺は最初、台・密・禅の兼学道場でした。
建長7年(1255)にはようやく大仏の落慶供養が営まれます。本尊の釈迦如来像は高さ15m、脇侍の観音菩薩像と弥勒菩薩像は7.5mという巨大なものでしたが、その後の相次ぐ火災で焼失、現在は釈迦如来像の右手(2m)だけが残っているようです(未だ見たことがありません)。なお、円爾の友人であった日蓮は、東福寺創建を祝って巨大な木材を寄進し、喜んだ円爾は法堂の南東の柱に用いて「日蓮柱」と呼びました。この柱は明治14年(1881)の火災で失われましたが、法堂再建の折、日蓮宗同門の士によって新たに柱が寄贈されたといわれています。
円爾は建仁2年(1202)に駿河国に生まれ、久能山久能寺で堯弁(ぎょうべん)に師事したあと、園城寺(おんじょうじ)で天台を修め、東大寺で授戒しました。その後、栄西の高弟である上野国(こうずけのくに)長楽寺の栄朝を師として臨済禅を学ぶとともに、久能寺で密教の伝授を受け、のちに鎌倉の寿福寺で栄西の弟子の行勇に師事しました。そのころ鶴岡八幡宮で開かれた法華八講を聴聞し、その内容に失望して禅を究める決意をしたといわれています。
嘉貞元年(1235)、円爾は33歳で入宋し、杭州径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)の無準師範(ぶじゅんしばん)の法を嗣ぎました。当時は蒙古が華北を支配しており、南宋で6年間修行した後、仁治2年(1241)に帰朝しています。帰国の航海では同時に出た3艘の船のうち2艘が途中で沈没、円爾の乗った船だけが博多にたどり着いたといわれています。翌年円爾は宋の貿易商、謝国明(しゃこくめい)の援助を得て博多に承天寺を開いています。
円爾が京都に招かれた当初、東福寺では台密禅が行われており、教義は複合的でした。円爾もそれに合わせて九条道家に禅戒と密教潅頂を授けています。二条良実や一条実経、道家の妻、綸子をはじめ道家の周辺の人々が円爾の教えを受け、顕密諸宗の僧侶も円爾の門を叩きました。東福寺3世で、南禅寺開山となった無関普門も円爾に参禅しています。また泉涌寺の慧暁(えぎょう)は円爾に法を問い、弟子となったあと渡宋し、帰国後は東福寺第4世白雲慧暁となりました。
円爾はその後、上野国長楽寺に出向いたり、鎌倉の建長寺の造営にも参画しています。鎌倉幕府執権・北条時頼は円爾に帰依し、道家の没後は円爾の強力な外護者となりました。また後嵯峨上皇も円爾の説法を聞き、後深草天皇、亀山天皇は菩薩戒を受け、円爾は朝幕から崇敬されました。円爾は禅についてはとくに諸宗の根本であると説いています。
円爾が道家に伝えたとされる教えに「一時坐禅すれば、一時の仏なり。一日坐禅すれば、一日の仏なり。一生坐禅すれば、一生の仏なり。(『坐禅論』)」があります。けれども円爾は座ってばかりいたのではなく、とにかく動いたひとでした。法成寺の大殿を造り、尊勝寺や東大寺、四天王寺など旧仏教寺院の再建復興にも尽力しました。高い教学の精神をもち、延暦寺天台座主の慈源や、東大寺の円照らも教導して学徳は国中に称えられたといわれます。そんな円爾ですが、建長4年(1252)に右目を患って翌年失明しています。
円爾が宋から持ち帰った経典や書籍は膨大ですが、おもしろいのは水車を利用して粉を挽く製粉機械の設計図「水磨様図」で、円爾はこれをもとに製麺技術を興したといわれ、そうめんの祖とか、うどんの祖と呼ばれています。東福寺では円爾の命日にあたる毎月17日にそうめんをお供えをするそうです。また博多の承天寺は祇園山笠、博多織、博多焼、うどんの発祥の地として知られていますが、これらも円爾の尽力によるものだそうです。さらに、円爾は宋から持ち帰った茶の実を駿河で広め、静岡茶(本山茶)の茶祖とも呼ばれています。
弘安3年(1280)、円爾は「利生方便、七十九年、欲知端的、仏祖不伝」と遺偈(ゆいげ)を書き、入滅しました。「79年間、衆生のためにと願い尽くしてきたが、明確に真理を得ようとしても、仏祖はついに示してくれなかった」とは重い言葉です。なお東福寺に収められるこの遺偈は、直筆のものとして現存するわが国最古のものといわれています。