醍醐寺
(だいごじ)秀吉の「醍醐の花見」で知られる醍醐寺は、平安時代に真言僧の聖宝が笠取山の山上に開いた上醍醐に始まります。上醍醐に湧き出る醍醐水が寺号の由来となりました。醍醐天皇の御願により、山すそに釈迦堂が建てられたあと下醍醐に多くの伽藍が建立されてきました。
五重塔
山号・寺号 | 醍醐山、深雪山 醍醐寺(真言宗醍醐派) |
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住所 | 京都市伏見区醍醐東大路町22 |
電話 | 075-571-0002 |
アクセス |
地下鉄 東西線「醍醐」下車徒歩10分 京阪バス:「京都駅八条口」から「京都醍醐寺ライン」で 「醍醐寺」下車 JR「山科」または「六地蔵」から京阪バス 22, 22A系統で 「醍醐寺前」下車 JR「六地蔵」から東西線「六地蔵」乗換、「醍醐」下車徒歩10分 |
下醍醐 拝観時間 |
3月1日-12月第1日曜:9:00-17:00 12月第1日曜翌日-2月末日:9:00-16:30 閉門30分前で受付終了 |
上醍醐 入山受付 |
3月1日-12月第1日曜:9:00-15:00 12月第1日曜翌日-2月末日:9:00-14:00 |
拝観料 |
通常期: 三宝院庭園・伽藍 拝観券: 大人1000円 中・高校生700円 小学生以下無料 三宝院御殿:大人・中高生 500円 霊宝館本館・平成館特別展示 大人・中高生 500円 春期3/20-GW最終日: 三宝院庭園・伽藍・霊宝館庭園 拝観券: 大人1500円 中・高校生1000円 小学生以下無料 (春期:3月20日~5月15日/秋期:10月15日~12月10日) 霊宝館本館・平成館特別展示 大人・中高生 500円 ※障がい者証明書提示で本人と付添い1名無料 上醍醐入山料 大人600円(下醍醐拝観券ある方500円) 中・高校生400円(下醍醐拝観券ある方300円) |
公式サイト | http://www.daigoji.or.jp/ |
秀吉の「醍醐の花見」で知られる花の寺・醍醐寺
慶長3年(1598)3月15日(4月20日)、秀吉最後の豪遊といわれる「醍醐の花見」がここ醍醐寺で盛大に催されました。秀頼、北政所、淀殿はもちろんのこと、他の側室と1300人の女房・女中たちを引きつれての花見行列で、女房たちは道中3度の衣裳替えをしたそうです。
槍山(やりやま)の平地には花見御殿が建てられ、花見の1か月前には総門から槍山までの両側に、畿内から集めさせた700本の桜が植えられました。また、大名や家臣たちは山道の所どころに茶屋を設けたり、沿道の整備や警護に当たったようです。行列に招かれたのは女性ばかりで、男性は秀吉の三男の秀頼と前田利家だけでした。
この5か月後、秀吉は生涯の幕を閉じます。女好き、派手好きの秀吉らしいイベントではありましたが、そのころは朝鮮出兵に失敗し、痛手を負った家臣も多いなか、秀吉自身は著しく体調を悪化させていました。沿道に柵を張り、庶民を締め出して、ものものしい警備のなか花見が催されたことを考えると、女性ばかりを集めたことは別の意味で納得がいきます。それでも秀吉はこの日ばかりは女たちと花に浮かれ、酒に酔って目いっぱい楽しんだそうです。
この故事に倣い、醍醐寺では毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」が開催されています。
醍醐寺は空海の孫弟子にあたる聖宝(しょうぼう)が開いた真言宗の寺院です。笠取山の山上に始まった醍醐寺は、やがて醍醐天皇の御願寺となり、延長4年(926)に山すそに釈迦堂が建てられました。醍醐天皇の没後は皇子の朱雀天皇や村上天皇が下醍醐に堂宇を造営し、天暦5年(951)には朱雀天皇発願の五重塔が完成しています。
醍醐天皇は唯一臣籍から天皇になった人でありました。父の定省王(のちの宇多天皇)が臣籍に下り、源定省(みなもとのさだみ)を名乗っていたころに藤原胤子(ふじわらのたねこ)との間に生まれたのが源維城(みなもとのこれざね)、すなわち醍醐天皇です。 藤原時平とコンビを組んで行われた「延喜の治」は理想的な治世と讃えられましたが、菅原道真を左遷したあと、道真の怨霊に苦しんで亡くなります。醍醐天皇の一周忌は醍醐寺の釈迦堂で営まれました。
その後の永久3年(1115)に、第14代座主の勝覚(しょうかく)により三宝院が塔頭として建立されます。勝覚は村上天皇の孫である源師房(みなもとのもろふさ)のさらに孫です。院政期になると貴族社会では藤原氏に代わって村上天皇の流れをくむ村上源氏が台頭し、醍醐寺の座主も源師房の系統から多く出ました。のちに理性院、金剛王院、報恩院、無量寿院も境内に建立され醍醐五門跡となり、醍醐寺の座主は当初この五門跡から順に選ばれていました。なお、真言宗は平安後期に広沢流とのちに小野流と呼ばれる2流に分かれ、醍醐寺は小野流を中心とした法流を伝えています。
南北朝の時代、後醍醐天皇は報恩院から醍醐寺座主となった文観(もんかん)を重用しました。 文観は、後醍醐天皇の討幕運動を支援して鎌倉幕府の調伏を行ったり、楠木正成を後醍醐天皇に引き合わせたりしたといわれています。 一方、後醍醐天皇と敵対して室町幕府を開いた足利尊氏は、日野俊光の子で三宝院の僧、賢俊(けんしゅん)と親密になり、賢俊を介して光厳上皇の院宣を受け朝敵の名を免れています。賢俊はこののち醍醐寺座主となり、さらに東寺長者も務めました。 そのころ醍醐寺山内は後醍醐天皇派と足利尊氏派が対立しながら並び立っていたのです。 醍醐寺には後醍醐天皇が文観に与えた「天長印信」と、足利尊氏が賢俊の四十九日に寄せて書いた「理趣経」が伝えられています。
室町時代になると足利義満の崇敬のもと醍醐寺は全盛します。義満の養子である満斉(まんさい)が三宝院門跡として准三宮(じゅんさんぐう)の地位を得るとそれ以降、醍醐寺の座主は三宝院門跡が独占することになりました。満斉は政治にも参画して「黒衣の宰相」とも呼ばれました。
やがて、応仁・文明の乱が起き、文明2年の兵火で醍醐寺の堂宇は五重塔以外はすべて焼失します。この荒れ果てた醍醐寺を再興したのが第80代座主の義演でした。豊臣秀吉は莫大な財力で義演をバックアップし、視察に訪れては再建・修復を指示したと伝えられています。
総門をくぐってすぐ左手に三宝院が建っています。三宝院は秀吉の栄華を物語る桃山時代の遺構です。三宝院唐門(国宝)には、中央に秀吉の家紋である五七桐(ごしちのきり)と両側に菊の紋が大きく施された豪胆な意匠になっています。
また醍醐寺の境内に建つ高さ約38mの五重塔(国宝)は、上・下醍醐の堂舎中、唯一現存する創建当時(天暦5年・951)の建築物で、現存する京都最古の建物です。上に行くほど裳階(もこし)が小さくなる安定した造りで、相輪が塔の約1/3を占める美しい構造になっています。初層内部は御開扉法要の日に写経奉納した参拝者が拝観できるようです。
現在の金堂は、慶長5年(1600)に紀州湯浅の満願寺の本堂が移築されたものといわれています。移築時に桃山風に改修されていますが、もとは平安末期の建築物で、大規模な建物ですが、優美な外観を残しています。
醍醐寺には古文書や仏像、法具など膨大な寺宝が所蔵されており、霊宝館でその一部が展示されています。現在は本尊の薬師如来三尊像もこちらに安置されています。また常設展以外に春と秋には特別展も開かれます。
修験者・聖宝(しょうぼう)が開いた上醍醐
上醍醐へは、女人堂脇から出発して約1時間ほど山道を歩くことになります。下醍醐を見たあとで行く場合は女人堂を出て改めて入山料を納めます。直接上醍醐に行く場合は霊宝館横の脇参道を歩いていくと女人堂のわきまで行けます。また入口で杖を借りることもできます。
笠取山(標高450m)の山上に醍醐寺を開いたのは聖宝(理源大師)でした。修験道に明け暮れていた聖宝が笠取山に上り、休憩しているところへ山の神である横尾明神(よこおみょうじん)が白髪の老翁に姿を変えて現れ、枯葉の下に湧く水を飲んで「あぁ醍醐味なるかな」といい、「この地で密教を広めなさい」と言い残して消えたといわれています。聖宝はその水が湧くところに石を積んで閼伽井(あかい)とし、草庵を結びました。これが醍醐寺の始まりと伝えられています。
ちなみに「醍醐」は仏教で乳を発酵させて得られる5段階の味のうち最上のものを指すそうです。5味とは下から順に、乳(にゅう)、酪(らく)、生酥(せいそ)、熟酥(じゅくそ)、醍醐(だいご)をいい、醍醐味は仏教において、醍醐の純粋で最高の味をたとえて、最上の教えとされています。でも山岳修験者にとっては理屈抜きに、のどを潤す水がこの上なく美味しく感じたでしょう。
醍醐寺を開いた聖宝は天智天皇の6代孫にあたる人物とされ、天長9年(832)に瀬戸内海に浮かぶ讃岐の本島(ほんじま)で生まれたと伝えられています。父は葛声王(くずなおう・かどなおう)、母は綾子姫といわれ、聖宝が生まれたとき父の葛声王は塩飽(しわく)諸島に流されていたそうです。やがて成長した聖宝は、空海の弟子で実弟であった真雅(しんが)を頼って単身上京し、弟子となりました。
京都の貞観寺(じょうがんじ)にいた真雅は、聖宝の才能を見抜き、奈良の東大寺で修行させました。5年後、役小角(えんのおずの)を崇拝していた聖宝は吉野の山に入って苦行を積み、再び東大寺で南都六宗を学んだ後、貞観寺に戻ります。ところが聖宝は真雅の可愛がっていた犬を放して猟師に与えてしまい、怒った真雅は聖宝を破門してしまいます。これは『醍醐雑事記(だいごぞうじき)』に収められる説話ですが、実際は真雅と聖宝の間に仏教のあり方をめぐって確執があったとも考えられています。
いったん本島に戻った聖宝はそこで出会った少年を連れて再度上京し、ともに乞食僧として托鉢を続けたそうです。この少年が後に醍醐寺の初代座主となる観賢(かんげん)でした。その後、聖宝は当時摂政であった藤原良房の仲介で真雅と和解し、再び貞観寺に戻ります。
しばらく経ったある日、聖宝は5色の雲に導かれて笠取山に登り、例の横尾明神と出会います。貞観16年(874)に山頂に草庵をつくり、准胝(じゅんてい)観音と如意輪観音を彫って安置し、その2年後に准胝堂と如意輪堂を完成させました。醍醐寺ではこの貞観18年(876)を創建の年としています。
醍醐寺は延喜7年(907)に、聖宝に帰依していた醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂が建てられ、続いて五大堂も落成します。さらに延喜13年(913)に定額寺となり、延喜19年(919)には観賢が醍醐寺初代座主となりました。
女人堂から上醍醐の境内までは約2.6kmあります。山道には町石が立っていて、残りの道のりを知ることができます。ちなみに19丁が最終のようですが、16丁で登り坂は終わります。
登り始めるとすぐに槍山の「豊太閤花見跡」にさしかかりましたが、立入禁止の看板の向こうに荒れた茂みが見えるだけで、かつて千畳敷の平地に秀吉の花見御殿があったようには想像できません。その後、不動の滝を超えるとどんどん坂道は険しくなり、1時間くらいで社務所横の上醍醐の参道にたどり着きます。
参道を行くと左手に清瀧宮拝殿(国宝)が見えてきます。長安の青竜寺で密教を学んだ空海が帰国するとき、密教を護るために空海についてきたという清瀧権現(善女龍王)が祀られています。現在の建物は室町時代に再建されたもので、入母屋造、屋根は檜皮葺。前面は崖に向かって懸造りになっていて、屋根の妻側に軒唐破風がつけられ、こちらが正面になっています。懸造りは斜面に建物を造る際、床面を水平に保つために束柱の長さを調節する構法で、清水の舞台も懸造り(懸崖造り)です。拝殿の頭上に本殿が建っています。
さらに進むと醍醐水の祠があります。まさしくここが醍醐寺発祥の地で、現在も霊泉として篤く信仰されています。折角なので飲んでみたところ、とくに醍醐味は感じませんでした。醍醐水の祠のさらに上方には准胝堂跡地があります。准胝堂は開創当初に建てられましたが、何度も火災に遭い焼失しています。残念なことに2008年にも落雷で焼け、現在は跡地だけになっています。
醍醐水の祠を横切っていくと、薬師堂、五大堂、如意輪堂と続き、一番奥に開山堂が建っています。薬師堂は保安2年(1121)の再建によるもので上醍醐でいちばん古い建物です。本尊の薬師如来三尊像は、醍醐寺に現存する仏像のなかで唯一聖宝時代のものだそうです。オリジナルの薬師三尊像は下醍醐の霊宝館に遷されていて、こちらには代理の薬師三尊が祀られているようです。
薬師堂わきの坂道を上がると五大堂があり、正面に五大明王像が祀られています。五大明王は、不動、降三世夜叉(ごうざんぜやしゃ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳(だいいとく)、金剛夜叉をいいます。醍醐寺では毎年2月23日に下醍醐の金堂で、五大力さんと呼ばれる「五大力尊仁王会(ごだいりきそん にんのうえ)」の大法要が修されます。
如意輪堂は開創時に准胝堂とともに建立されましたが、現在の建物は慶長11年(1613)のもので、本尊の如意輪観音と毘沙門天、吉祥天が祀られます。こちらの建物も典型的な懸崖造りです。開山堂は慶長13年(1608)に豊臣秀頼により再建されたもので、桃山時代の様式を伝える上醍醐最大の建造物です。堂内には聖宝(理源大師)像、弘法大師像、観賢僧正像が祀られています。
聖宝は吉野で山岳修行に励みましたが、上醍醐も山岳寺院として早くから修験者や山伏たちが集まるところだったようです。室町時代になると全国各地の山伏たちの組織化が進み、天台宗の園城寺聖護院を本山とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本山とする当山派が二大勢力となり、醍醐寺は修験道の寺として全国に知れ渡ります。