勧修寺
(かじゅうじ)勧修寺は、平安時代の醍醐天皇により、生母の藤原胤子(ふじわらのいんし・たねこ)の菩提を弔うために創建された真言宗の寺院です。天皇の母、胤子は藤原高藤と宮道弥益(みやじのいやます)の娘、列子(れっし)の一夜限りの恋から生まれたと伝えられています。
宸殿
山号・寺号 | 亀甲山 勧修寺(真言宗山階派) |
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住所 | 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6 |
電話 | 075-571-0048 |
アクセス |
地下鉄 東西線「小野」下車徒歩6分 京阪バス:「京都駅八条口」から「京都醍醐寺ライン」で 「勧修寺」下車 |
拝観時間 | 9:00-16:30(16:00受付終了) |
拝観料 | 一般500円 |
藤原高藤と宮道列子(みやじのれっし)の恋物語
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)は、藤原北家の流れをくむ藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の孫とされています。その高藤は、15、6歳の頃、山科に鷹狩りに出かけた帰りに突然の雷雨に遭い、馬飼いの従者とともに山沿いの人家の軒下で雨宿りをしていました。するとその家の主人が気づいて迎え入れ、13、4歳の娘に接待させました。
美しく清らかな娘に一目惚れした高藤は、娘と一夜の契りを交わし、翌日、形見に太刀を置いて帰っていきました。家に戻ると、高藤の父は昨夜戻らなかったことを激怒し、以後、鷹狩りを禁じてしまいます。娘の家を覚えている馬飼いの従者も田舎へ帰ってしまい、高藤は娘と逢うこともできないままずっと忘れられずにいました。
そうして6年の年月が流れたころ、田舎から上京した馬飼いを伴って高藤は山科へ行き、例の家を訪ねます。そこには5、6歳の美しい女の子がいて、じつはその子は高藤の娘でした。その家の主人は宇治郡の大領、宮道弥益(みやじのいやます)で、弥益の娘は列子(れっし・たまこ)といいます。列子の枕元に置いてある太刀をみて、高藤は深い縁を感じ、列子と娘を都に迎えました。娘は藤原胤子(ふじわらのいんし・たねこ)と呼ばれました。
やがて高藤の娘の胤子は宇多天皇の女御となり、2人の間に生まれたのが醍醐天皇でした。その後、高藤は出世して内大臣にまで昇ります。宮道弥益の家はのちに寺となり、それが今の勧修寺です。
これは『今昔物語』巻22「高藤内大臣語第七」で語られる高藤と列子の物語で、大筋はノンフィクション。貴族出身の男性と宇治郡の大領の娘との恋からさまざまな偶然が重なって、世に醍醐天皇が出たのです。
実際は、宮道弥益は山科の大領で、かなりの地方豪族です。また山科に籍を置きながらも朝廷に仕えた官人でありました。一方、高藤は藤原北家といっても傍流で、長く中級官僚だったことを考えると、それほど格差婚ではなかったのかもしれません。
でもそこから天皇が出る、というのはやっぱり運命的です。高藤の娘胤子は「宇多天皇」の女御となりましたが、2人の間に源維城(みなもとのこれざね)が生まれた元慶9年(885)は、宇多天皇はまだ臣籍にあり、源定省(みなもとのさだみ)を名乗っていたころです。維城(これざね)はまさに後の醍醐天皇ですが、宇多天皇の父、光孝天皇は即位後に自分の子供をすべて臣籍降下しており、維城が生まれたとき、定省王も皇族を出ていたのです。
ところが仁和3年(887)に光孝天皇が危篤に陥ると、藤原基経(ふじわらのもとつね)らの推薦により、源定省は皇族に復帰、践祚(せんそ)して天皇となり、それに伴い源維城も皇族に列せられ、寛平2年(891)に敦仁(あつひと・あつぎみ)と改名し、寛平9年(897)に宇多天皇からの突然の譲位で天皇となります。つまり、醍醐天皇は、皇室の長い歴史のなかで唯一、臣籍に生まれた天皇でした。
結果として天皇を輩出した藤原高藤は内大臣にまで出世し、没後に正一位・太政大臣の位を追贈されています。宮道弥益も地方の郡長官から一躍天皇家の一族となり、家門は代々繁栄しました。『今昔物語』では、高藤が鷹狩りで雨に降られたために、さまざまな偶然が重なってこのようなおめでたいことになったが、これらはみんな前世の因縁、と語られています。
なお、藤原高藤の異母兄・利基の子孫からは『源氏物語』の作者、紫式部が出ています。紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)は、利基の3世孫にあたり、また為時の母は高藤と列子の子の定方の娘(紫式部の祖母)にあたります。
醍醐天皇、宮道弥益邸を勧修寺と改める
昌泰3年(900)、醍醐天皇は、生母、胤子の菩提を弔うために宮道弥益邸跡を寺と改め、藤原高藤の諡号から勧修寺としました。延喜5年(905)に定額寺となり、鎌倉時代末期、後伏見天皇の皇子、寛胤(かんいん)法親皇が16世で入寺して以降、明治初期まで門跡寺院として続きます。参道に沿って山門まで続く長い築地塀は門跡寺院の風格を漂わせ、境内はしっとりとした典雅な雰囲気に包まれています。なお、天永元年(1110)に勧修寺別当に就いた寛信(かんしん)は、真言宗小野流の一派である勧修寺流の開祖でもあります。寛信は高藤から8世孫の藤原為房の子にあたります。
勧修寺は、平安時代に胤子の兄、藤原定方が境内に西堂を建立して以来、定方の忌日に「御八講」が営まれ、中世までは高藤流の菩提寺でもありました。高藤流一族で最高官位の者が代々西堂長者となり、一族をまとめていたといわれています。また、高藤流は太政官で弁官を務めることを家職としていました。弁官とは天皇に近侍して公文書を発給したり、太政官と諸省、諸国との間の命令・伝達などを行う職です。
やがて高藤流は勧修寺家を家号とし、鎌倉時代以降は院(治天の君)の命令を天皇や公家、寺社などに伝達する「伝奏」や、公武の意思を伝達・交渉する「武家伝奏」も世襲しました。戦国時代、高藤流甘露寺系から出た勧修寺晴豊は、織田信長と石山本願寺の間に入り、武家伝奏として講和の交渉役を務めています。
中門を入ってすぐ右手に宸殿(明正殿)が建っています。宸殿は、元禄10年(1697)に明正院(めいしょういん)御所の御対面所を下賜されたもので、それに続く書院は貞亨3年(1686)に後西院(ごさいいん)御所の旧殿を賜ったもの。建物内部の「上の間」には土佐光起・光成親子の筆による障壁画がめぐらされ、「勧修寺棚」とよばれる違い棚が施されています。また境内奥の霊元(れいげん)天皇の内侍所を移築した本堂には本尊の千手観音立像が安置されています。建物内部は通常非公開です。
宸殿や書院の南側の平庭を行くと、まず樹齢750年のハイビャクシンの巨木が目に入ります。その枝葉に埋まるように、灯篭が建っています。これは勧修寺型灯篭と呼ばれ、水戸光圀が寄進したものだと伝えられています。さらに行くと木立が伽藍を隠すように林立し、丸い敷石がそれを縫うように西へ連なって、五大堂や本堂へと導かれます。
諸堂の南側には池があり、平安時代には氷室として使われていました。毎年正月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその年の五穀豊凶を占ったといわれています。文明2年(1470)の兵火で堂宇が全焼したあと、秀吉の伏見城築城に際し、新街道建設のために氷室池南面の大半が埋め立てられて、寺地が大幅に縮小されたそうです。江戸時代になり、徳川幕府から寺領を寄進され復興しました。
江戸時代の古図により復元された現在の庭園は、氷室池が中心に配され、東山を借景した池泉回遊式庭園です。 平庭と対照的にあまり造作を加えず自然を活かした庭園で、のどかな風景が広がっています。 氷室池には大小3つの島が浮かび、5月半ばから夏にかけてフジ、カキツバタ、スイレンなどが美しく咲きます。